81 選ばれなかった王女
夜会が終わったあと、セリーヌ・デ・モンレーヴは王宮の客間へ戻された。
戻された――その感覚が、一番近かった。
案内した侍女たちの態度は丁寧で、礼も失っていない。だが廊下の角ごとに立つ近衛の数が、今までより明らかに多い。扉の外にも侍従が控え、こちらの動きを静かに塞いでいる。保護ではなく、自由を減らすための配置だと、セリーヌにはすぐにわかった。
(隔てられたのね)
鏡の前に立つ。ホワイトブロンドの髪は乱れていない。扇も歪んでいない。王女としての姿だけを見れば、今夜も美しいままだった。
それなのに、部屋の空気だけがもう違う。
ほどなくして、年配の侍女が一礼し、低い声で告げた。
「王女殿下、外遊用にお持ちの王家の宝飾と印章を、今のうちにお返しいただきたく存じます」
セリーヌは一瞬、意味を掴み損ねた。
「……今、ですの?」
「はい。ご帰国の準備のために」
しばらく、声を出せなかった。
外遊用の宝飾。
王女印。
それらは、モンレーヴ王国第一王女として国外で振る舞うために託されていたものだった。返せと言われる意味はひとつしかない。
もう表に立つ王女として扱わない、ということだった。
それでもセリーヌは、すぐには手を動かさなかった。侍女は急かさず、ただ待っている。その沈黙が、かえって耐えがたかった。
ゆっくりと印章を外し、机へ置く。続いて王家の意匠を刻んだ首飾り、正式な外遊の席でのみ用いる髪飾りも外した。金属が盆へ置かれる乾いた音が、小さく響く。
侍女は恭しく受け取り、一礼した。
「ありがとうございます」
その礼が、侮辱ではなく事務的であることが、余計に堪えた。
扉が閉まると、部屋がひどく広く感じられた。
セリーヌは鏡へ向き直る。そこにいるのは確かに王女だった。だが、さっきまで自分を支えていた外側の証が、音もなく剥がれ落ちている。
(まだ終わりではない)
夜会で言葉を誤ったからといって、すべてが終わるわけではない。帝国の不興を買ったとしても、それは一時のことかもしれない。父王が事情を汲み、形だけでも庇う可能性はある。
そう考えようとしたところで、扉が再び叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、モンレーヴの紋章をつけた老臣だった。背後には王宮側の侍従もいる。彼がここへ来た時点で、もう夜会のあとに少し謹慎する程度の話では済まないのだと知れた。
「王女殿下。明朝、ご帰国いただきます」
「……そんなに急ぐ必要がありまして?」
問い返した声は、まだ崩れていなかった。老臣は目を伏せたまま答える。
「急ぎ、本国より命が届いております」
「今宵の一件だけで?」
「今宵の一件だけではございません」
その言い方に、胸の内が冷えた。
◇ ◇ ◇
帰国後、セリーヌは休息を与えられることなく父王の執務室へ呼ばれた。
高い窓から差し込む光が、机の端を白く照らしている。父王の隣には、あの老臣が控えていた。二人とも立たない。そのことが、娘を迎える場ではなく、処分を言い渡す場であることを、何より具体的に示していた。
「ただいま戻りました、お父様」
礼を尽くす。声も姿勢も乱していない。ここで崩れれば、本当に終わる気がしたからだ。
父王はしばらく娘を見ていたが、やがて言った。
「座りなさい」
勧められた椅子へ腰を下ろすと、老臣が扉を閉めた。
「今日は、遠回しな話はしない」
父王の声には、慰めも曖昧さもなかった。
「お前は、帝国に外された」
その一言で、執務室の空気が変わる。
セリーヌはすぐには何も言えなかった。
見られていなかったのではない。外されたと、父は言ったのだ。
「……それは、どういう意味でしょう」
ようやく搾り出した問いへ、父王は情け容赦なく答えた。
「そのままの意味だ。帝国はお前を知らなかったのではない。見たうえで、迎える価値がないと判断した」
老臣が淡々と続ける。
「資質、性質、振る舞い、判断。そのすべてを見たうえで、でございます」
セリーヌは父を見た。否定してほしかった。せめて、言いすぎだと誰かが止めてくれればと思った。だが、誰も止めない。
「……ならば、なぜ」
問いは、自分でも驚くほど弱々しかった。
「なぜ、そのことを伏せたまま、わたくしをヴァレンティアへ送り出したのですか」
父王が端的に答える。
「お前のためだ」
「わたくしの……?」
「そうだ。見られたうえで拒まれたと知れば、お前は耐えられぬと思った」
その瞬間、セリーヌは椅子の肘掛けを握っていた。
「だから、王妃候補としてヴァレンティアに残しておいた。そうしていれば、少なくとも表向きには道が残る。お前の性格なら、その方が傷が浅いと判断した」
傷が浅い、という判断そのものが、何より深く刺さった。
つまり父は、帝国に外されたという真実を告げれば、自分はそれだけで壊れる娘だと見なしていたのだ。
老臣の声が重なる。
「王女殿下は選ばれる側であることに強く価値を置かれます。ゆえに、帝国が最初から受け容れぬと知れば、立て直しが難しいと王はお考えになりました」
丁寧な言い方で、性質を突きつけられる。
セリーヌは扇を持っていなかった。もし手元にあれば、骨が折れるほど握りしめていただろう。今は指先の空虚さが余計に苦しかった。
「……では、最初から」
「そうだ」
父王は言い切る。
「最初から、お前のための帝国行きなどなかった」
その一言が、最後だった。
帝国語も、礼法も、社交も、舞踏も。幼い頃から積み上げてきたものの先に、自分が立つべき舞台があると信じていた。その場所そのものが最初から用意されていなかったと、今ここで断じられる。
屈辱より先に、足場が消える感覚があった。
「……先日の夜会での発言は、すでに帝国側へ正式に伝わっております」
老臣がさらに告げる。
「皇帝陛下の裁可と後見、ならびにヴァレンティア王家の受理へ疑義を差し挟んだものとして、帝国は強い不快を示しております」
「そんな……」
初めて、言葉が乱れた。
父王は娘をまっすぐ見据えた。
「帝国がお前を要らぬとした時点で、お前の道は狭まっていた。だが先日、お前は自分で最後の道も閉ざした」
逃げ道のない言い方だった。
「外交の前線には出せぬ。婚姻交渉も止める。王妃候補として扱う余地も、もうない」
ひとつずつ剥がされていく。
王女としての婚姻。
外交の席。
次の国へ繋がるための交渉。
どれも、セリーヌが当然手にするものだと信じてきたものばかりだった。
「では……わたくしは、どうなるのですか」
尋ねるしかなかった。父王は、ほんの少しも躊躇わなかった。
「北の修道院へ入れる」
「修道院……」
「修養名目だ。だが、言葉を飾る意味もないだろう」
そこで初めて、父王の声がわずかに冷えた。
「セリーヌ。お前の表舞台は終わりだ」
部屋が静まり返る。
その言葉だけは、どれだけ簡潔でも聞き違えようがなかった。
一時の後退ではない。
しばらく大人しくしていれば戻れる、という話でもない。
終わりだと、父が直々に断じたのだ。
セリーヌは瞬きもできなかった。
老臣が最後の実務だけを告げる。
「王女印の使用は停止されます。外遊資格も凍結。婚姻交渉はすべて白紙に戻し、以後、対外の書簡は王の許可なく出せません。同行していた侍女のほとんども解かれます」
それは死刑宣告ではない。
しかし、王女として公に生きる未来を切り落とすには十分すぎた。
セリーヌは椅子の背へもたれなかった。そうすれば楽になるかもしれないとわかっていても、それをしたら本当に負けてしまう気がしたからだ。
(まだよ)
心のどこかで、なおそう思おうとする。
修道院は修養の場だ。
時間が経てば、父の気持ちも変わるかもしれない。
帝国だって永遠に今のままとは限らない。
だから、まだ終わっていないのではないか――そう考えようとする。
しかし、その考えを父王が最後に打ち砕いた。
「勘違いするな」
低い声だった。
「これは、次へ備えるための後退ではない。お前を前へ出せば、モンレーヴそのものが傷つくから下げるのだ」
そこに父娘の情はなかった。ただ、国を守る側の理屈だけがあった。
セリーヌは何も言えなかった。
帝国に見られたうえで外された。
その事実を伏せてもらっていた。
しかも今は、その気遣いさえ不要だと見なされている。
そして、王女としての未来も閉じられた。
これ以上、どこへ立てというのだろう。
「……承知しましたわ」
それでも、そう答えることだけはできた。声は震えていない。
王女は、落ちるときでさえ美しくあれ。そう教わってきたからだ。
執務室を出て、長い廊下を歩く。足音だけがやけに硬く響いた。侍女たちの視線は以前と違う。畏れでも憧れでもない。もう次の王妃候補としては見ていない目だ。
自室へ戻ると、荷造りのための箱がすでに置かれていた。
王女のための箱ではない。最低限の荷を入れるための箱だった。
そこでようやく、はっきりとわかった。
自分は終わったのだ。
帝国でも、王国でも、もうどこにも立つ場所はない。
修道院は、次のための待機所ではなく、表から消すための場所だった。
窓の外では、王都の空が何事もなかったように暮れていく。
その静けさの中で、セリーヌはようやく、自分が選ばれなかった側へ完全に落ちたのだと知った。
主戦場は、もう別の場所へ移っていた。




