79 皇女帰還の夜会
夜会へ向かう支度が整った頃、離宮の一室はいつもより華やいだ空気に包まれていた。
鏡の前に立つロゼッタは、最後に胸章へ指先を添えた。金の台座に留められたピンクダイヤモンドが、灯りを受けて柔らかく光る。帝国で授けられた皇女位の証であり、皇帝アウグストゥスの後見を示す印だ。
今夜は、あの一月を終えて帰ってきた自分を、王国の中で正式に示す場になる。
「……緊張してる?」
後ろからステラが声をかけた。ロゼッタは鏡越しに小さく笑う。
「少しだけ」
「少し、で済むのね」
「済ませたいのよ」
そう答えると、マリアが横から勢いよく頷いた。
「でも、お綺麗です! 本当に……そのお色、すごくお似合いです」
今夜のロゼッタの装いは、青を基調としたドレスだった。深すぎず、淡すぎず、夜会の灯りの下で落ち着いて映える青に、金糸の刺繍が控えめに入っている。帝国の皇女として不足がなく、それでいて、王国の場でも浮かない色合いだった。
ロゼッタ自身も、この色を選ぶとき迷いはしなかった。
青と金。
それが何を意味するのかを、今はロゼッタ自身がよく知っていた。
「胸章がある分、飾りは抑えて正解だわ」
ステラが全体を確認しながら言う。
「髪色も胸章も、十分に目を引くもの」
「派手すぎないかしら」
「大丈夫よ。必要なのは、隠れないことだから」
その言葉に、ロゼッタは鏡の中の自分を見つめた。
薔薇金の髪は隠さない。胸章も外さない。侍女であった自分を消す必要はないが、もうそれだけで立つわけでもない。
髪は上半分を後ろでまとめ、残りは背へ流している。
そこへ結ばれた、青に金糸の刺繍を施した上品なリボンは、今夜の決意を表しているようだった。胸章の輝きも、以前の自分を隠さず、そのうえで公の場へ出るための姿に見えた。
ノックの音が響く。
マリアが扉へ目を向けるより早く、ロゼッタの胸が一度、大きく跳ねた。
「……どうぞ」
扉が開き、ルチアーノが姿を見せた。紺青の正装が、今の彼によく似合っている。灯りの中で金髪は淡く輝き、青い瞳はまっすぐロゼッタを見た。
その視線が止まる。
彼はただ立ち尽くしているだけなのに、ロゼッタにはそれで十分だった。言葉を選んでいるのだとわかったからだ。
見えなかった頃の彼なら、まず声の位置を確かめて、次に衣擦れや香りで変化を探っていただろう。今は違う。目で見て、そのまま言葉を失っている。
ルチアーノの喉が小さく動く。視線は髪に留まり、次に胸章へ移り、それからもう一度、顔へ戻ってきた。
その髪を隠さず、青と金の色をまとい、皇女の胸章をつけたロゼッタは、以前の「離宮の専属侍女」ではない。
それなのに、ルチアーノの瞳に浮かんだのは距離ではなく、見惚れている色だった。
「……殿下?」
ロゼッタが呼ぶと、ようやく彼は息をついた。
「綺麗だ」
それだけだった。
しかし、その一言へ辿り着くまでに視線が何度も彷徨ったことが、かえって隠しきれない本音のように感じられた。
「ありがとうございます」
「いや……」
ルチアーノは少し言葉を足しかけて、やめた。
青い瞳はまだロゼッタを見ている。髪型のことも、胸章のことも、今日の装いの意味も、恐らくわかっているのだろう。けれどそれを口にしてしまえば、今度は自分が耐えられなくなると思ったのかもしれなかった。
ロゼッタの頬が熱を帯びる。
見られることに慣れていないわけではない。帝都でも、本来の薔薇金を隠さなくなってからは多くの視線を受けた。それでも、今のルチアーノの目はまるで違う。
公の場へ出る自分を、最初に見てほしい相手に見られている。
その事実が、何よりも強く心に響いた。
「行こう」
ルチアーノが腕を差し出す。
「私の隣を歩いてくれ」
ロゼッタはその腕へ手を添えた。
以前なら半歩先を歩いていた。今は、並ぶために差し出された腕を取っている。
◇ ◇ ◇
王宮の大広間へ続く扉が開くと、夜会の光とざわめきが一斉に流れ込んできた。
入場の口上が高らかに告げられる。
「ヴァレンティア王国第一王子、ルチアーノ・ディ・ヴァレンティーノ殿下――」
ざわめきがさらに広がる。
それに続けて、さらに声が響いた。
「北方国境を預かる功により伯爵位を賜ったマリーニ伯爵家令嬢、ならびにアルシア大帝国皇女、ロゼッタ・マリーニ殿下――」
その瞬間、ざわめきの質が一段変わったのがわかった。
伯爵位。
皇女位。
そして、皇帝アウグストゥスの後見。
どれか一つでも十分重い。今夜はそれらすべてが、ロゼッタという一人の娘へ集まっている。
ルチアーノにエスコートされて進む間、視線が幾重にも注がれた。以前なら、その視線の中には憐れみや好奇心も混じっていただろう。今あるのは、それとは違う驚きと値踏みだった。
しかもルチアーノは回復した視力でロゼッタを導いている。完全ではないとしても、その並びはもう「盲目の王子と侍女」ではなかった。
(……見られている)
だが、不思議と足はすくまなかった。
隣にいるルチアーノの歩幅は落ち着いていて、腕を通じて伝わる力も迷わない。ロゼッタもまた、その速度に合わせて進む。半歩前ではなく隣で。
王座に近い位置で足を止めると、国王ヴィットーリオが立ち上がった。広間のざわめきがゆっくり収まる。
「今宵は、帝国よりの正式文書受理と、ロゼッタ・マリーニの帰還を公に示すための夜会である」
低くよく通る声が大広間へ広がった。
「また、マリーニ家が長く北方国境を支え続け、備蓄、輸送、鉱山の維持に尽くし、さらには虹色魔石を私蔵せず国家へ献じた功により、伯爵位に陞爵したことも改めて示す」
会場の緊張感はさらに増した。
この昇格は、恋情や好意の便宜ではない。家としての功績に対する正式な評価だと、王自ら言葉にしたのだ。
「アルシア大帝国の文書は、王家として正式に受理した」
ヴィットーリオの視線がロゼッタへ向く。
「王国は、帝国皇女ロゼッタ・マリーニを、帝国皇女としての礼をもって遇し、同時にマリーニ伯爵家の令嬢として迎える」
短い宣言だったが、それで十分だった。
大広間の中で、ロゼッタの立ち位置はもう確固たるものになっていた。
それを最も強く示していたのは、肩書きだけではない。
腕を組んでロゼッタの隣に立つルチアーノの存在が、すべてを現実のものにしていた。
視界の端で、艶やかなホワイトブロンドの髪がひときわ明るく揺れる。
その色を見た瞬間、ロゼッタは誰がこちらを窺っているかを悟った。
セリーヌ・デ・モンレーヴが、夜会の灯りの向こうからロゼッタを見ていた。




