78 帰る先はあなた
ゆったりとした演奏が流れ始め、ミケーレとロゼッタは広間の中央へ進んだ。
距離は適切だった。近づきすぎず、離れすぎず、舞踏として最も美しく見える位置を保っている。ミケーレの導きは滑らかで、ロゼッタも無理に合わせているようには見えない。帝都で幾度かこういう場を経験したのだろう。その自然さが、見ているこちらを落ち着かなくさせる。
視界はまだ完璧ではない。
それでも、色も動きも、今のルチアーノには十分だった。
青みを帯びたロゼッタのドレスが揺れる。
ミケーレの手の位置は礼を失わず、足運びにも乱れがない。
(帝都では、こうして並んでいたのか)
言葉にしてしまえば、余計にみじめだとわかっている。それでも、知らない一月を目の前で見せつけられているようで、気持ちはどうしても平静ではいられなかった。
曲は長くなかった。
やがて終わりの音が流れ、二人は礼を交わして離れる。
ミケーレはそれ以上引き止めなかった。そのまま一歩退き、使節の席へ戻ろうとする。
だが、それより早くロゼッタが動いた。
迷いなく、一直線に。
彼女は広間を横切り、ルチアーノのところへ戻ってくる。
「殿下」
柔らかな声が、傍で止まる。
ルチアーノは顔を上げた。
ロゼッタは、ほんの少しだけ身を寄せて言う。
「帝都で、かけがえのない友人に出会えました」
そこで言葉を切り、声を明るくした。
「でも、帰ってきた先は、あなたのところです」
その一言が、ささくれていた気持ちを少し静めた。
「……そうか」
「はい」
ロゼッタは自然な動きで、ルチアーノの傍へ腰を下ろした。もう一度広間の中央へ戻ることはない。そんな彼女の選択が、何よりもはっきりした答えだった。
やがてミケーレが席へ戻り、帝国側の文官と一言二言交わしたのち、改めてこちらへ向き直る。
「第一王子殿下」
「何だ」
「先ほどは、非礼を承知で一曲お願いしました」
「非礼とは思っていない」
ルチアーノは淡々と答える。
「帝都での礼として妥当だろう」
「そう仰っていただけるなら、ありがたい」
ミケーレは目を細めた。そこに勝ち誇る気配はない。ただ、こちらが感情に流されなかったことを、きちんと受け止めた顔だった。
「ロゼッタは、帝都でも変わらず実直でした」
「……そうだろうな」
「ええ。見ているこちらが学ばされることも多かった」
その言い方に、ルチアーノは彼を見た。
赤い瞳は穏やかな色を湛えている。わざとらしさはなく、だからこそ誠実だと感じた。
この男は、ロゼッタを好ましいと思ったのだろう。
それでも、それを前へ出さない。そういう男だと、そこでようやくわかった。
「帝都で世話になったこと、改めて礼を言う」
「光栄です」
ミケーレは一礼し、それ以上は踏み込まなかった。
◇ ◇ ◇
茶席が終わりに近づいた頃、迎賓室の外で控えていた侍従がニコラスへ何かを告げた。ニコラスは小さく頷き、そのままルチアーノのもとへ来る。
「殿下」
「どうした」
「王宮より沙汰が届いております」
その声で、室内の空気が改まった。
「皇女位授与と帝国使節来訪を受け、王家主催の夜会が正式に開かれます。帰還の披露と帝国文書の受理を、公の形で示す場となります」
「日取りは」
「明後日でございます」
ルチアーノは少し考え、それから答えた。
「承知した」
夜会。
そこでは、もう私的な甘さだけでは済まない。ロゼッタの立場も、自分の立場も、そして帝国と王国の線までも、公の場で明確に示されることになる。
だが今は、それを恐れる気にはなれなかった。ロゼッタが自分の意志で傍へ戻ってきたこと。そのことが、十分な支えになっていたからだ。
視線を向けると、ロゼッタもまたこちらを見た。
自分の目で、その表情を見られる。
「明後日ですね」
「ああ」
「今度は、公の場です」
「そうだ」
ルチアーノはロゼッタに真正面から問いかけた。
「隣にいてくれるか」
「もちろんです」
その答えには、前よりはっきりした芯があった。
◇ ◇ ◇
使節が引き上げたあと、離宮の回廊はようやくもとの落ち着きを取り戻した。
ルチアーノは半ば当然のようにロゼッタを伴って私室へ戻った。扉が閉まると、先ほどから押し込めていたものが、そこでようやく熱を持った。
「……ロゼッタ」
「はい」
いつも通りの返事に、また気持ちが揺れる。
「彼は誰だ」
ロゼッタはほんの少し首を傾げた。尋ねられた意味に気づくまで、少し時を要したらしい。
「ミケーレ様のことですか」
「ああ。帝都で、あなたを名で呼ぶほど近しい」
ロゼッタは束の間考えてから言った。
「帝都で、とてもよくしてくださった方です。大切な友人です」
その答えは自然だった。後ろめたさも、誤魔化しもない。だからこそ、なおさら気にかかる。
「友人、か」
「はい。図書室のことも、草案の見せ方も、社交の練習も、たくさん助けていただきました」
ルチアーノはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「では私は、いつまで殿下なのだろうな」
ロゼッタの頬へ、少しずつ赤みが差していく。
「それは……」
「彼を『ミケーレ様』と呼ぶのに、私はいつまでも殿下なのだな」
声を落として続ける。
「二人きりのときだけでいい。私のことを、ルチアーノと呼んでくれないか」
ロゼッタは言葉を失った。
その反応だけで、無理を言っている自覚は十分にあった。だが、今日のあの呼び方を聞いてしまっては、もう言わずにはいられなかった。
「……まだ、少しだけ恥ずかしいです」
「そうか」
落胆を見せすぎぬように答える。
するとロゼッタは、困ったように微笑んだ。
「でも、いつか」
「いつか?」
「そのうち、きちんと呼べるようになりたいとは思っています」
その一言で、ざわついていたものは少し違う形へ変わった。
「……それなら待つ」
「はい」
ルチアーノはさらに言う。
「もう一つ、頼んでもいいか」
「はい」
「私だけは、君をロゼと呼びたい」
今度こそ、ロゼッタは完全に固まった。
「ろ、ロゼ……ですか」
「嫌か」
「嫌では、ありません」
答えた声が照れているようで、ルチアーノはようやく小さく笑う。
「では、それもそのうち許してくれ」
「……少しずつ、お願いいたします」
瞳を伏せてそう言うロゼッタが、どうしようもなく愛おしく見えた。
夜会は明後日だ。
その前に、また新しい望みがひとつ増えた。




