76 好きだと、目を見て
研究室へ差し込む朝の光は、少しずつ白さを増していた。
ルチアーノの言葉が、まだ耳の中に残っている。
――私は、ロゼッタ、君が好きだ。
――命令ではなく、今の私として、あなたに選ばれたい。
抱え込んだままにしてきた想いは、もう隠れ場所を失っていた。
ロゼッタは指先を握りしめ、まっすぐルチアーノを見つめる。
彼は何も急かさない。ただ、返事を待っている。その待ち方まで、ルチアーノらしかった。
「……私も、お慕いしています」
声にした瞬間、視界が滲みそうになった。
それでも目を逸らさない。
「ずっと、そうでした」
もう一度、もっとわかりやすい言葉を選ぶ。
「……好きです」
ロゼッタは、はっきりと彼を見た。
「殿下が好きです」
侍女の枠に隠れない。礼儀や役目の影へ逃げない。
言葉にしたことで、心の内に定まっていたものがようやく形になった。
「だから帰ってきました」
ルチアーノの瞳が、ほのかに揺れる。
「侍女として役に立ちたいからではありません。お支えしたいからでも、それだけではなくて……一人の女性として、殿下の隣にいたいと思ったからです」
想いを隠さず、そのまま伝える。
「帝国でいろいろなものをいただきました。皇女位も、後見も、知識も。けれど、私が一番欲しかったのは、ここへ戻って、こうして自分の気持ちを口にすることでした」
頬が熱い。今にも涙が出そうなのに、不思議と苦しくはなかった。
「今度は、私の意志で」
気持ちを素直に告げる。
「あなたを選び返します」
二人はしばらく見つめ合い、やがてルチアーノが吐息混じりに言った。
「……そうか」
その表情が緩む。
「では、私は夢を見ているわけではないのだな」
「夢ではありません」
「そうか」
端整な顔に笑みが浮かぶ。見えていなかった頃より、ずっと無防備に見える笑顔だった。
そして、ルチアーノの指先がロゼッタの唇の傍で止まる。
「あのときは、救うためだった」
地下での、あの口づけのことだとすぐにわかった。
「今は違う」
視線が絡み、重なり合う。
「今の私の意志で触れたい。……いいだろうか」
問いかけてくれることが、何よりルチアーノらしかった。
ロゼッタは小さく頷き、目を閉じる。
唇がそっと触れる。深く奪うものではないのに、躊躇いはなく、言葉を交わした二人の心ごと確かめるような口づけだった。離れても顔の距離はほとんど変わらず、額が微かに触れ合った。
「好きだ」
「……はい」
「ロゼッタ」
「はい」
「もう一度、言ってくれないか」
そんなふうに言われたら、断れるわけがない。
ロゼッタは彼の肩口へ額が触れそうな距離で、小さく、けれど今度は迷わず言った。
「好きです、殿下」
抱きしめる腕に、少し力がこもる。
見えない世界で育った想いが、見える世界でも変わらずここにある。そのことが、何より嬉しかった。離れたくないと、初めてはっきり思った。
しばらく、どちらも動かなかった。
やがてルチアーノが、ロゼッタの髪へ触れたまま言う。
「この先のことも、君と一緒に受けたい」
抱擁の中で、ロゼッタは顔を上げた。
「王宮のことですか」
「ああ」
答える調子に、もう迷いはない。
「帰還の披露も、帝国文書の受理も、そのあとの王宮の整理も、君を後ろへ下げたまま進めるつもりはない。私の隣で、一緒に受けてほしい」
「はい」
ロゼッタは躊躇わず、ルチアーノへ笑いかけた。
「私も、殿下の後ろではなく、隣で受けます」
言い終えたところで、扉の向こうに控えめな気配を感じた。ノックはない。それでも、誰なのかはすぐにわかる。
「……よろしいでしょうか」
ニコラスの声だった。
ルチアーノはロゼッタを抱いたまま、気持ちを鎮めてから答える。
「入れ」
扉が開く。ニコラスは一礼し、研究室へ足を踏み入れた。二人の様子を一度だけ認めたものの、そこへ何も触れず、そのまま本題を告げる。
「王宮より使いが参りました。帰還の正式披露、および帝国文書受理の場が設けられます。日取りは、まもなく正式に伝えられるはずです」
甘い余韻の中へ、現実が入り込んでくる。
それでも、ロゼッタは慌てなかった。これから向かうのは、帰還を示すだけの場ではない。帝国の文書を受理させ、王宮の整理へ踏み出す最初の局面だと、二人とももうわかっている。
ロゼッタはそっとルチアーノの腕の中から身を離し、そのまま彼を見上げた。ルチアーノもまた、視線で応える。
「参りましょう」
「ああ」
ルチアーノはロゼッタの手を取る。
「二人で行こう」
その言葉へ、ロゼッタも顔を綻ばせた。
「はい」
朝の光は、もう研究室いっぱいに広がっていた。その明るさの中で、二人は同じ方向を向いて立っていた。




