74 ローズゴールドの輪郭
朝、いつもより早く目が覚めたルチアーノは、寝台の上でしばらく動かずにいた。眠れなかったわけではない。けれど深く眠った気もしなかった。
目を閉じていても、開いていても、今の彼の世界には以前より明暗があった。窓のある位置、灯りの置かれた場所、人が立てば影が差すこと。そのくらいなら、もう掴める。
ただ、まだ定まらない。
輪郭は揺れ、光は滲み、見えているはずのものが最後のところで形を結ばない。
半ば開いた世界のまま、ずっと足踏みをしているようだった。
(今日で、変わるだろうか)
寝台の脇に置いた杖へ手を伸ばし、柄の蛇の意匠を指先で確かめる。
その冷たさで、思考を落ち着けた。
やがて、控えめなノックが響く。
「殿下。ニコラスでございます」
「入れ」
扉が開き、濃い色の人影が差し込む。
今の視界では、まだ顔立ちまでははっきりしない。けれど、その立ち方と声音でニコラスだとわかる。
「ご気分はいかがですか」
「悪くない」
そう言うと、ニコラスは近くまで進み出た。
「本日の術式について、最後にご説明いたします」
机へ何かを置く音がする。
恐らく虹色魔石だろう。あの石が放つ独特の存在感は、視界より先にわかるようになっていた。
「今日の術式は、新しい力を加えるものではございません」
「……これまでの積み重ねを、最後まで繋ぐための調整か」
「はい」
ニコラスの返答は簡潔だった。
「守護、魔石、術式、そしてお身体の回復。これまで別々に働いていたものが、ひとつの流れになりつつあります。本日は、そのずれを最後まで重ね合わせます」
奇跡ではない。
ここまで積み重なってきたものの、行き着く先だ。
それなら受け止められると、ルチアーノは思った。
願ってきたことではある。けれど、空から降ってくる恵みのように扱われるのは違う。ここまで来たのは、自分だけではないにせよ、何もせずに待っていた結果ではないのだから。
「ロゼッタ嬢も、間もなくお見えになります」
その一言に、鼓動がひとつ大きく打ったのを自分でも感じた。
「……そうか」
「共鳴を安定させるためにも、いらしていただくのが最善です」
ニコラスがそう言い終えたとき、廊下の向こうで衣擦れの音がした。
普段の足音より、少しだけ軽い。
耳慣れた歩幅なのに、今日は何かが違うとわかる。
ノックのあと、扉が開く。
「おはようございます、殿下」
「……ああ」
ロゼッタの声だった。
けれどそれだけではない。石鹸の清潔な香りと、近づかなければわからない柑橘の爽やかさ。その馴染んだ香りのまとい方まで、今日はどこか違っていた。
「今日は、少し雰囲気が違うな」
思ったままを口にすると、彼女は一拍置いて口を開く。
「そうでしょうか」
「衣擦れも、足音も、いつもと違う」
「……今日は、きちんと身支度してまいりました」
その言葉に、ルチアーノはわずかに口元を緩めた。
「ステラとマリアが、張り切ってしまって」
「なるほど」
そう言われると、何となく状況が浮かぶ。
マリアがそわそわと手を動かし、ステラが呆れたような声をしながらも、細かなところまで手をかけているのだろう。
「おかしいでしょうか」
「いや」
ルチアーノは首を横に振る。
「……それでいい」
そう告げると、ロゼッタは息をついた。肩の力が抜けたのが、微かな衣擦れでわかった。
◇ ◇ ◇
医務棟の奥にある研究室には、すでに術式の準備が済んでいた。
床の中央には、幾重にも重なる魔法陣。
その中心へ向かうまで、ロゼッタが半歩先で導く。杖を引かず、必要なときだけ位置を知らせる歩き方は、今も変わらない。
「段差はございません」
「ああ」
「中央まで、あと三歩です」
その声を頼りに立ち止まると、ニコラスが虹色魔石を手に進み出た。
「殿下、こちらを」
差し出された石を受け取る。
手のひらへ乗せた瞬間、内部で色が揺らめいた気がした。赤とも紫とも青とも言い切れない色が、層になって息づいている。
「ロゼッタ嬢は、その位置で」
「はい」
少し離れたところに、ロゼッタが立つ。
気配で位置はわかる。ただ今日は、その位置を視界でも捉えたいと強く願った。
ニコラスが詠唱を始める。
低く連なる声に合わせ、床の線が順に明るさを帯びる。
眩しいというほどではない。しかし、いつも滲んで逃げていた灯りが、今日は違った。
光が、彷徨わない。
窓から差し込む朝の明るさが、白い塊のまま流れていかず、そこに留まり始める。薄灰の膜の向こうで揺れていた世界が、少しずつ輪郭を持ち始めた。
(……見える)
いや、まだ違う。
見えるというより、ばらけていたものが、形として残り始めている。
ニコラスの濃紺の影が、そこに立っている。
壁の位置も、床に描かれた円の広がりも、さっきまでより明確だった。
そのとき、視界の端に別の色が差した。
ひとつだけ、柔らかな光を帯びる色。
最初は金だと思った。
それでは足りない。朝の光を含んだ金に、どこか淡い薔薇が混じっている。白にも、茶にも、ただの金にもならない色だった。
その色が、揺れながらもひとつの束となって落ちている。
(髪……か)
あれが、ロゼッタの髪。
ずっと手のひらで触れてきた、あの滑らかな髪が、初めて色を持って目に入った。
さらに、上半分の髪が後ろでまとめられているのもわかる。
まとめた髪のあたりに、青を帯びた布が覗いていた。ごく薄い朝の光の中でも、その青は沈まず、細い金糸が控えめに浮かんで見えた。
そしてその近くに、深い赤があった。
小さな、透明な輝きの中に閉じ込められた赤。
燃えるようではないのに、目を引く色だった。
(あれは……)
意味を掴むより先に、輪郭がさらに明瞭になる。
その髪の下に、彼女がいた。
華奢な肩。
ごく薄い青のドレス。
首筋から頬へ続く柔らかな線。
こちらを見ている。
何かを言いたげにしながら、それでも言葉を差し挟まずに見守る表情があった。
「殿下……?」
ロゼッタの声がした。
そのとき、声と姿が結びつく。
蜂蜜色の瞳。
自分をまっすぐに捉えている眼差し。
いつも耳で追っていた声の主が、今は視界の中にいた。
もう声で探す必要はなかった。
朝の光の中で、揺れながらも確かにそこに立つ彼女を見つめたまま、ルチアーノは掠れた声で呟いた。
「……君か」




