73 ただいまの続き
ロゼッタの温もりが、まだ腕の中にあった。
石鹸の清潔な香りに、柑橘の爽やかさが微かに混じる。馴染んだ彼女の香りだった。
帝都までの遠さも、帰ってくるまでの長さも、その温もりと香りに触れた途端、もうどうでもよくなった。見え方はまだ完全ではない。光と淡い輪郭の視界の中で、それでも艶やかな髪の感触と、自分の背へ回された華奢な腕だけははっきりわかった。
(帰ってきた)
命じて帰らせたのではない。
自分で行くと決め、自分で帰ると決めて、今ここにいる。
その事実が、全身へ深く沁みるようだった。
ルチアーノは抱きしめる力を少し緩めた。
離したいわけではない。けれど、このままでは本当に離せなくなりそうだった。
ロゼッタが息を整える様子が伝わってくる。
「殿下」
その声で呼ばれただけで、どうしようもなく心が揺れた。
「……ああ」
それ以上、うまく言葉にできなかった。
視界の中で、ロゼッタの輪郭が自分へ向いている。以前より光を拾うようになった目でも、まだ細部まではわからない。とはいえ、そこにいるのが彼女だという事実は、見失いようがなかった。
「皆が待っております」
ロゼッタの声は、以前と変わらず穏やかだった。
それがどうしようもなくありがたい。
ルチアーノは息をつき、頷いた。
「……そうだな」
扉の方へ向き直ろうとしたとき、ロゼッタが控えめに問う。
「ご案内いたしましょうか」
その言い方に、張りつめていたものがふっとほどける。
勝手に支えない。必要かどうかを確かめる。
帝都へ行っても、彼女の芯は変わっていない。
「頼む」
差し出された手へ、自分の指を重ねる。
それだけで、ようやく呼吸が落ち着いた。
◇ ◇ ◇
小広間へ入ると、待っていたのはステラ、マリア、ニコラスの三人だった。
いつもなら入口近くに、気配を薄くしたジャミルが立っている。
だが今日は、その姿がない。数日前から、ジャミルは王都の外も含めて、闇魔法の痕跡を辿る任に就いている。帰還のこの場にいないのは惜しいが、彼にしか任せられない重要な案件だった。
(まだ戻らないか)
今は問いたださない。
戻れば、必要な報告は上がってくる。
最初に動いたのはマリアだった。
「ロゼッタさん……っ」
今にも泣きそうな声だった。駆け寄りそうになって、途中で踏みとどまる。胸章と帝国仕立ての装いが目に入っているのだろう。近づきたいのに、どう距離を取るべきか測りかねているのが見て取れた。
ロゼッタが先に微笑む。
「ただいま戻りました、マリア」
それで十分だったらしい。
マリアは目元を押さえ、ぐっと涙をこらえる。
「……はい。おかえりなさいませ」
声は少し揺れていたが、きちんと礼を崩さなかった。
ステラは一歩前へ出て、いつも通りの顔で言った。
「おかえり、ロゼッタ」
その呼びかけは、外向きの礼ではなかった。
最後にニコラスが、折り目正しく口を開く。
「帝国でのご研鑽と、皇女位授与、ならびに後見を得られたことに、心よりお祝いを申し上げます、ロゼッタ様」
丁寧な祝意だった。
公の重みを軽んじず、それでいて距離を置きすぎない。
ロゼッタは三人を見回し、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
その声を聞きながら、ルチアーノは内心で思った。
彼女の立場は変わった。けれど、ここから切り離されたわけではない。
それは、この場の空気がもう示していた。
「立ったままでは話しづらいな」
ルチアーノがそう言うと、ロゼッタがいつもの癖で半歩引こうとした。
その動きを察して、彼は先に続ける。
「そこではなく、こちらへ」
示したのは、自分のすぐ隣の席だった。
空気が一拍止まる。
以前なら、ロゼッタは少し離れた位置で控え、必要に応じて動いていたはずだ。今は、彼女を戻ってきた侍女のように立たせるつもりはなかった。
ロゼッタも、その意図はわかったのだろう。ひと呼吸置いてから、素直に頷く。
「……はい」
そのまま彼の隣へ座る。
それだけのことなのに、室内の配置が以前とは違って見えた。
マリアが泣きそうな顔のまま、それでも嬉しそうに目を伏せる。
ステラは何も言わずに茶の支度へ回り、ニコラスは当たり前のように話の続きを待った。
ルチアーノはその空気に、かえって安堵した。
無理に以前のままへ戻そうとしない。けれど新しい立場だけを前へ出して、遠ざけもしない。
離宮らしい迎え方だった。
◇ ◇ ◇
茶が行き渡ったあと、ロゼッタが帝国でのことを簡潔に語り始めた。
礼法、陪席、法、財、宮廷実務。
最初から客扱いではなく、見定められる者として入ったこと。
途中で一度、善意の先回りで人の役目へ踏み込み、面目を傷つけかけたこと。
そこから詫び、学び、草案を書き直したこと。
図書室の記録を読み、皇帝と問答を交わしたこと。
そして一月の終わりに、皇女位と後見を得たこと。
語り口は淡々としていた。
誇るでも、必要以上に苦労を強調するでもない。ただ、起きたことを順に告げていく。
それがかえって、帝都で彼女が受けた重圧を伝えていた。
マリアは何度も息を呑み、最後には両手を胸元で握りしめた。
「そんなことが……本当に……」
ステラはひとつひとつの話を受け止めて頷く。
「顔つきが変わった理由が、よくわかったわ」
ニコラスは最後まで口を挟まずに聞いてから言った。
「皇帝陛下が血筋だけでなく、ご本人の判断と線引きを見ておられたことも、納得できます。……お見事でした、ロゼッタ嬢」
先ほどまでの公の調子を少しだけ緩めた呼び方に、ロゼッタの表情も綻ぶ。
「ありがとうございます、ニコラス様」
そのとき、マリアがふと周囲を見回した。
「ジャミル様にも、早くお伝えしたいです」
言ってから、自分で少し気まずそうに口を閉じる。
ジャミルがいないことを、この場で改めて意識したのだろう。
ニコラスが抑えた声で応じた。
「戻り次第、伝えます。今は少々、外で片づけるべきことがございまして」
それ以上は言わない。
だが、その声音の低さで十分だった。今の不在が、ただの用事ではないことは、誰にでもわかる。
ロゼッタも問い返さなかった。
今は帰還の場であり、別の火種を持ち込むときではないと理解しているのだろう。
「……そうですか」
彼女は穏やかな声音で、そう返した。
余計な詮索をしないところまで、やはりロゼッタらしい。
しばらくして、ステラが口を開く。
「お荷物の整理と、お部屋の支度を進めてくるわ」
マリアもすぐに立ち上がった。
「私もお手伝いいたします」
ロゼッタが慌てて言いかける。
「そんな、私も――」
だが、ルチアーノが先に遮った。
「今日はいい」
声が少し強くなったのが、自分でもわかった。すぐに言い直す。
「……戻ったばかりだ。働くために帰ってきたわけではないだろう」
ロゼッタが、ほんの少し息を止める。
それから小さく、でもはっきりと返事があった。
「はい」
その肯定に、ルチアーノはようやく肩の力を抜いた。
ステラとマリアが退き、ニコラスも一礼する。
「のちほど、改めてお話ししたいことがございます」
「わかった」
「では」
扉が閉まる。
室内に残ったのは、ルチアーノとロゼッタだけだった。
◇ ◇ ◇
物音が遠のいた。
先ほどまで人の温度が満ちていた小広間に、今は茶の香りと、ロゼッタの呼吸だけが残っている。
ルチアーノは視線を落とした。
完全には見えない。だが、すぐ隣にいる彼女の輪郭は、以前よりずっと近く感じられた。
「……殿下」
呼ばれて、顔を向ける。
何か言わなければと思うのに、うまく言葉が出てこない。
待っていると書いた。帰る場所は整えてあると書いた。けれど、その先にずっと飲み込んできたものは、やはり簡単には言い表せない。
結局、ルチアーノは最も偽りのない一言を口にした。
「戻ってきてくれてよかった」
ロゼッタが息を呑み、それから、とても柔らかな声で答える。
「……私も、帰ってこられてよかったです」
その返答が、身体の芯に温かく広がった。
彼はそっと手を伸ばし、ロゼッタの手のひらへ触れた。
彼女も逃げない。指先が重なり、自分より高い熱が溶け合っていく。
(よかった)
今はそれで十分だった。
そのとき、扉が控えめに叩かれる。
「殿下。ニコラスでございます」
「入れ」
咳払いをして返した。
ニコラスが入ってきたときには、ロゼッタもすでに姿勢を正していた。だが、完全に手を離しきる前の温もりは、まだ指先に残っている。
ニコラスは二人の様子を必要以上に見ず、そのまま本題を切り出した。
「守護、虹色魔石、術式の積み重ねについて、改めて確認が取れました」
ルチアーノは背筋を伸ばす。
「続けてくれ」
「殿下の視界は、これまで段階的に改善しております。光、輪郭、色の拾い方、いずれも一時的な揺らぎではなく、共鳴の安定に伴って定着しつつあります」
ロゼッタが、微かに息を詰めたのがわかった。
ニコラスは冷静に続ける。
「加えて、ロゼッタ嬢のご帰還により、守護の波長もさらに揃う可能性が高いと見ております。今なら、最終的な視力回復を試みる条件が整っております」
室内の空気が、そこで張りつめた。
ルチアーノは杖の柄へ手を置く。
この日を待っていた。いざ目の前へ差し出されると、緊張が先に立ち上がる。
「成功の見込みは」
問うと、ニコラスは慎重に言葉を選んだ。
「断言はできません。ですが、守護、魔石、術式。そのすべてが、これまでで最も整っております」
無理に安心を与えない返答だった。だからこそ、信じられる。
ロゼッタが声を潜めて尋ねる。
「……いつ、行うのですか」
ニコラスは二人を見てから答えた。
「明朝がよろしいかと。夜を越えて術式を整え、朝のまだ人の動きが少ない時間に試みます」
ルチアーノは一度目を閉じた。
見えるようになりたいと思った。
その願いは、もうずっと前から手放していない。
だが今は、それ以上に強い思いがある。
明日、もし本当に見えるなら、最初に見たいのは誰か――その問いに迷いはなかった。
「わかった」
目を開け、ルチアーノは頷く。
「明朝、行う」
ニコラスが深く一礼する。
「承知いたしました。すぐに準備へ入ります」
そう言って退室したあとも、しばらく言葉はなかった。
明日の朝。
その言葉が、小広間に重く残る。
ロゼッタの手が、そっと自分の指先へ触れた。
離れずにいてくれる、その温もりを確かめながら、ルチアーノはゆっくり息をついた。
視力回復のための術式は、翌朝行われることになった。




