72 王国への帰還
王国の城壁が見えたとき、ロゼッタは膝の上でそっと指を重ねた。
長い帰路の揺れも、ようやく終わる。
胸元には、金の台座にピンクダイヤモンドを留めた胸章がある。帝国で与えられた皇女位の証であり、皇帝アウグストゥス自らが後見に立つと示した印でもあった。
もう、以前と同じように、誰にも気づかれず王都へ戻ることはできない。
(それでも、帰ってきた)
その思いは、はっきりしていた。
帝国の騎士たちに護衛された馬車が王都へ入る頃には、先触れがすでに届いていたのだろう。門を守る兵の顔つきも、街路の端に並ぶ人々の様子も、以前とは違っていた。好奇の目もあれば、値踏みするような視線もある。
第一王子の専属侍女としてではなく、帝国皇女位を得た娘として見られている。
ロゼッタはそれらを受け流すように、窓の外へ視線を向けて息をついた。
(だからといって、私自身が急に変わるわけではないわ)
侍女だった自分を捨てて帰るのではない。
帝国で得た足場を抱えたまま、それでも自分で選んで戻るのだ。
馬車が止まり、扉が開かれる。
王都のマリーニ家の邸宅前には、領地から来ている父と母が並んで立っていた。
先に目に入ったのは母だった。
淡い光を宿すアイスブルーの瞳が、ロゼッタの髪と、胸元の胸章と、逸らさない目を順に見ていく。
母には、それで足りたのだろう。何も問わず、目を細める。
帝国へ呑まれたのではない。
帝国の重みを持ったまま、しっかり自分の足で戻ってきたのだと、ひと目で見抜いたようだった。
ロゼッタは馬車を降り、二人の前で深く頭を下げた。
「ただいま戻りました、お父様、お母様」
父が先に口を開く。
「よく帰った」
その一言で十分だった。父の声には余計な飾りがなく、その分だけ素直に届く。
母はロゼッタの顔を見つめ、それから穏やかに言った。
「おかえりなさい、ロゼッタ」
母の言葉に、張っていた気持ちがようやく緩んだ。
しかし母は、そこで情に流される人ではない。
ロゼッタの後ろに控える帝国側の騎士たち、従者の手にある文書箱、王都に満ちている空気の変化まで見たうえで、落ち着いた口調で続ける。
「話はあとで聞くわ。今は、先に行きなさい」
ロゼッタが目を瞬かせると、母は小さく笑った。
「もう会いたくて仕方がない顔をしているもの」
一気に頬が熱を帯びる。
「お母様……」
「馬車はそのまま使いなさい」
隣に並ぶ父が言った。
「離宮へ向かうのだろう」
「……はい」
返事は思いのほか頼りなかった。
それでも、母も父もそれ以上は何も言わない。その代わり、二人ともロゼッタの選ぶ先を、当然のものとして受け容れてくれていた。
それがたまらなくありがたかった。
「行ってまいります」
「ええ」
「また落ち着いたら、顔を見せなさい」
多くを交わさずとも、今はそれで満ち足りた。
◇ ◇ ◇
離宮へ向かう道にも、なおざわめきが残っていた。
帝国騎士を伴う馬車が王都を進み、その先が離宮だと知れれば、衆目を集めるのも無理はない。
帝国皇女位を得た娘が、第一王子のもとへ帰る。その意味が軽いはずがなかった。
だが今は、そうした視線に心を奪われたくなかった。
ロゼッタは手のひらを重ね、ゆっくり息を整える。
(大丈夫。私は、自分で帰ると決めて戻ってきた)
胸章も、後見の証書も、帝国での一月も、何ひとつ偽りではない。
そのうえで今、自分が向かっているのは、選び返したいと願った人のところだった。
離宮の門が見えたとき、呼吸が自然と速くなる。
見慣れたはずの石造りの壁も、庭へ続く道も、今はひどく鮮やかに見えた。
馬車が止まり、ロゼッタはそっと目を閉じる。
(帰ってきた)
扉が開くと、そこには三人の姿があった。
ステラ。
マリア。
ニコラス。
以前とまったく同じ顔で、とはいかない。皆、胸章にも、後ろに控える帝国騎士たちにも気づいている。
それでも向けられた眼差しに、よそよそしさはなかった。
ステラが一歩進み出る。
「おかえりなさいませ、ロゼッタ様」
以前なら、ただ名を呼ばれていただろう。
今はきちんと礼を尽くしている。とはいえ、その声音に固さはない。
マリアは目を潤ませながら、それでも懸命に笑った。
「おかえりなさい……! 本当に、ご無事で……」
今にも泣きそうな声に、ロゼッタはマリアの優しさを感じて微笑んだ。
「ただいま戻りました、マリア」
最後にニコラスが、折り目正しく一礼した。
「ご帰還をお待ちしておりました、ロゼッタ様」
その一言で、ここが自分の帰る場所として残されていたのだと、改めて実感する。
ロゼッタは三人を見回し、頭を下げた。
「皆さんに心配をおかけしました」
「そのようなお言葉は不要です」
ニコラスが目元を和ませて言う。
「お戻りになると、殿下が信じておられましたから」
その名を聞いた瞬間、鼓動がもう一度高く跳ねた。
「……殿下は」
「奥に」
ステラが答える。
「お部屋でお待ちです」
ロゼッタは頷いた。
足が勝手に急ぎそうになるのを抑えて、一歩ずつ進む。
離宮の廊下を歩く。
馴染んだ香り。磨かれた床。窓から差す、柔らかな午後の光。
ここで過ごした時間が、ひとつずつロゼッタへ戻ってくる。
扉の前で、一度だけ深呼吸した。
ノックをしようとしたそのとき、中から抑えた声が響く。
「……入れ」
その声に触れた途端、込み上げるものがあった。
扉を開けると、室内の空気がすぐにロゼッタを包んだ。
窓際には、ルチアーノが立っていた。
まだ完全ではないのだろう。青い瞳は以前より光を拾っているように見えるものの、視線の定まり方には揺れがある。それでも、扉の開いた気配と足音に応じて、彼の身体はきちんとこちらを向いていた。
ロゼッタは数歩進んで立ち止まる。
走っていきたかった。今すぐ抱きつきたかった。
でも、それは違うと思った。
ここまで来たのは、自分で決めたからだ。
そしてこの人もまた、自ら選んで迎えてくれる人だから。
だからロゼッタは、しっかりと声にした。
「ただいま戻りました」
室内の時間が止まったように感じられた。
ルチアーノの喉が小さく上下した。
それから、杖先が床をひとつ打ち、そのまま壁際へ立てかけられる。
「ロゼッタ」
感情を押し殺した声だった。
「はい」
ロゼッタは小さく答える。
ルチアーノが一歩、こちらへ進む。
次の一歩は、少し慎重だった。見えているものと、聞こえるものと、記憶している距離を確かめるように。
ロゼッタは動かなかった。
ルチアーノが自分で距離を詰めてきているのだから。
やがて彼の手が届く。
指先がロゼッタの袖へ触れ、そこから肩へ移る。確かめるようなその手つきは、ほどなく躊躇いを失った。
強く、抱きしめられる。
息が止まるほど、迷いのない腕だった。
帝国で得た胸章も、皇女位の重さも、その瞬間ばかりは遠くなる。
今ここにあるのは、待っていてくれたという事実だけだった。
ロゼッタも、そっと彼の背へ腕を回す。
震えているのが自分なのか、彼なのか、もうよくわからない。
薔薇金の髪へ顔を埋めるようにして、ルチアーノが囁いた。
「……会いたかった」




