69 友として見送る
執務室を出て扉が閉まったあと、ロゼッタはしばらくその場を動けなかった。
手のひらの中には、まだ胸章の重みが残っている。
金の台座に嵌め込まれたピンクダイヤモンドは、廊下の灯りを受けて淡く輝いていた。控える女官は少し離れた場所に立っており、今なら表情の揺れまでは読まれずに済むだろう。その考えが浮かんだ途端、胸に詰まっていたものがほどけていく。
(本当に……勝ち取れたのね)
ここへ来た理由が、ようやく形になった。
血筋を知ったから。
帝国皇族の娘だから。
そんな理由だけで手に入った皇女位ではない。この一月で見られたものの先で、自分は今ここに立っている。だから胸を張れる。たとえ完璧ではなくても、自分で選び、自分で取りに来た座なのだと。
女官に案内されて自室へ戻ると、机の上には持ち帰るための文書がすでに整えられていた。授与の記録、後見に関する証書、王国側へ示すための認証写し。出立に必要な手配まで、きちんと順を追ってまとめられている。
帝国は、感慨に浸る時間までは与えてくれないらしい。
ロゼッタは思わず小さく笑った。
(最後まで容赦がないわ)
けれど、その容赦のなさに助けられてもいた。余韻ばかりが大きくなれば、きっと足が止まる。だが帝国は、感慨より先に次の実務を差し出してくる。だからこそ、自分が今どこへ向かうのかを見失わずに済む。
王国へ、離宮へ、あの方のいる場所へ帰る。
机の引き出しを開けると、厚手の小さな紙が指先へ触れた。受け取ってから何度も確かめた、あの短い私信である。
今度は全文を読み返さなくてもよかった。
表へ浮いた点を軽くなぞるだけで、言葉はもう胸の内に蘇る。
――急がなくていい。帰る場所は整えてある。
ロゼッタの口元が、ふっと綻んだ。
皇女位を得た今なら、その一文の意味が一層よくわかる。
戻る場所は、最初から消されていなかった。しかも待つだけではなく、整えてあると書いてくれたのだ。
胸章は、公に立つための足場だ。
この紙は、帰る場所が消えていないことの証だった。
紙を小さな文箱へ納めた、そのときだった。
扉が控えめに叩かれる。
「ロゼッタ様。ベルニ侯爵家のミケーレ様がお見えです」
ロゼッタは扉へ振り向いてから答えた。
「お通ししてください」
返事をしてすぐ、扉が開く。
入ってきたミケーレはいつも通り端然としていた。榛色に近い茶褐色の髪も、紅玉を思わせる瞳も落ち着いた色を保っている。けれど、その視線は部屋へ入った瞬間、ロゼッタの手元へ一度だけ止まった。
開いたままの文箱。
その中へ納めたばかりの小さな紙。
そして、しまい切る前に残っていたロゼッタの微笑み。
ミケーレは何も尋ねなかった。ただ、ほんの一拍だけ間を置いてから、いつものように一礼する。
「急にすまない」
「いいえ。どうぞ」
ロゼッタが勧めると、ミケーレは部屋の中央までは来ず、まず胸章と机上の文書へ目を向けた。
「準備が早いね」
「ええ。もう帰還の手続きが整っていました」
「帝国らしい」
その口ぶりに、ロゼッタも少し笑う。
「本当に。持ち帰りの書類まで揃っていました」
「感傷より先に書類を並べてくるところまで、らしいな」
ミケーレはそこでようやく、ロゼッタへ瞳の向きを戻した。
「……おめでとう、でいいのかな」
「はい」
ロゼッタは胸章を持ち直し、表情を和らげた。
「ありがとうございます」
「君なら届くと思っていたよ」
その言い方は、慰めでも取り繕いでもなかった。見たものをそのまま口にした響きだった。
「陛下は簡単に褒める方ではない」
「ええ」
「だからこそ、認めたのなら重い」
ミケーレはそこで一度言葉を切る。
それから、ロゼッタの机に整えられた文書へ視線を移した。
「草案のことも、きちんと届いたんだろう」
「はい。思っていた以上に、読まれていました」
「君らしいな」
ロゼッタは少し首を傾げた。
「私らしい、ですか?」
「思いついただけで終わらせないところが」
ミケーレは肩をすくめる。
「失敗しても、それを形に変える。そういう人は多くない」
その言葉を聞いて、ロゼッタは胸の奥が温かくなるのを感じた。
帝都で過ごした一月は、誰かに手加減してもらえるような日々ではなかった。けれど、その厳しさの中で、見てくれている人がいたと今は思える。
「ミケーレ様には、たくさん助けていただきました」
「助言を少ししただけだよ」
「それでもです」
ロゼッタは素直に言った。
「図書室の棚も、草案の見せ方も、社交の練習も。帝都で一人ではないと感じられたのは、ミケーレ様がいてくださったからです」
ミケーレはすぐには答えなかった。
ほんの少し目を伏せてから、いつもの静かな笑みを浮かべる。
「それなら、友人としては悪くない働きができたのかもしれないね」
「はい。とても頼りになる友人でした」
そう答えると、彼は一瞬だけ息を止めたように見えた。だが、それもすぐに消える。
「……でした、か」
「あ」
ロゼッタは思わず口元へ手をやった。
「もう終わったみたいな言い方になってしまいました」
「いや、構わない」
ミケーレは首を横に振った。
「君は帰るんだろう?」
「はい」
ロゼッタは迷わず答える。
「王国へ戻ります。離宮へも帰ります」
短い返答のあとで、自分でもわかるほど柔らかな声になった。
「あの方のところへ帰ります」
その一言を口にした瞬間、自分の顔が少し緩んだのを感じた。
ミケーレはそれを見ていたらしい。表情は崩さなかったが、返事までにごくわずかな間があった。
「……敵わないな」
低く落ちた声に、ロゼッタは目を瞬いた。
「何がでしょう」
「いや、独り言だよ」
ミケーレは穏やかに笑った。
「君の帰る先は、もうはっきりしているんだろうと思って」
責める響きはない。ただ、何かを見届けた人の声だった。
ロゼッタはそこへ深い意味を探さなかった。
ただ、彼が最後まで礼を崩さず、落ち着いていることがありがたかった。
「王国へ戻っても、きっと忙しくなる」
「はい。たぶん」
「それならば、今のうちに休めるだけ休んだ方がいい」
そう言ってから、ミケーレは淡々とした声で続ける。
「もっとも、君はそう言われて素直に休む人でもなさそうだけれど」
「……否定できません」
ロゼッタが苦笑すると、彼もようやく少しだけ表情を和ませた。
「また公の場で会うこともあるだろう」
「ええ」
「帝国と王国の間が、今日で終わるわけではないから」
その言葉は別れの挨拶であると同時に、帝国の友人として距離を置く言葉でもあるように思えた。
それでもロゼッタには、その距離がむしろ心地よかった。
「そのときは、今よりもう少し気楽に話せると嬉しいです」
「それは光栄だね」
ミケーレは恭しく一礼した。
「では、今日はこれで。帰還の支度を妨げるわけにもいかない」
「はい」
ロゼッタも頭を下げる。
「ミケーレ様」
「何かな」
「帝都でお会いできてよかったです」
彼は目を見開き、それから、今度こそ温かく微笑んだ。
「こちらこそ。君の友人になれたことを、悪くない出来事だったと思っている」
その返答に、ロゼッタも自然と笑みを返していた。
扉が閉まったあと、部屋には再び静寂が戻った。
ロゼッタはしばらくその場に立っていたが、やがて胸章を机の上へ置いた。次いで文箱へ視線を向ける。中には、短い私信が丁寧に納められている。
(帝都で得たものは、皇女位だけじゃなかったのね)
礼法、制度、記録、草案。
そうした目に見えるものだけではない。
厳しい宮廷の中で、構えずに話せる相手がいたこと。
頼ってよいと言ってくれる友人がいたこと。
それもまた、この一月で得たものの一つだった。
ロゼッタは机の上に並ぶ書類を見渡す。
授与の記録も、後見の証書も、これからの自分を支えるものだ。けれど、それとは別に、帝都で過ごした時間そのものが、確かに自分の中へ残っているのだとわかった。
窓の外では、夕方の光が帝都の屋根を淡く染めている。
友人として見送ってくれたことが、ロゼッタの胸に静かな感謝として残った。
そして、その感謝のまま、もう一度机へ向かう。
帰ろう。
帝国で勝ち得たものを胸に、王国へ。
ロゼッタはピンクダイヤモンドの胸章を小箱へ納め、帰還の支度へ手を伸ばした。




