68 皇女位
一月の短期留学が終わる朝、ロゼッタは明け方の薄い光の中で目を覚ました。
帝都へ来てからの一月は、短かったはずなのに、振り返れば随分遠くまで歩いた気がする。礼法、舞踏、陪席作法、法、財、宮廷実務。どれも甘くはなかった。できて当然、足りなければ問い直される。
その中で一度踏み外し、謝り、学び直し、草案を書き起こした。図書室の奥で記録を読み、皇帝の前で自分の答えも伝えた。
今日は、この一月の答えが示される日なのだろうとわかっていた。
身支度の前に、ロゼッタは机の引き出しを開ける。皇帝との問答を終えた夜、王国から届いた厚手の小さな紙へ、そっと指先で触れた。
表へ浮いた点の並びは、もう一度なぞるまでもない。
――急がなくていい。帰る場所は整えてある。
それだけの短い文なのに、胸の内を落ち着かせるには十分だった。
(ええ。だから、最後まで受け止めるわ)
紙を戻してから鏡の前へ立つ。薔薇金の髪は乱れなくまとめられ、落ち着いた色合いのドレスにも綻びはない。初日に宮廷へ上がった朝ほど指先は強張っていなかったが、心拍だけは少し速かった。
やがて、扉の外から女官の声が届く。
「ロゼッタ様、陛下がお呼びです」
ロゼッタは背筋を伸ばした。
「参ります」
案内に従って通されたのは、以前と同じ皇帝の執務室だった。
部屋へ入ると、アウグストゥス・ディ・アルシアは机の向こうに座っていた。薔薇金の髪とアイスブルーの瞳。その姿は端整で、なおかつ長く国を背負ってきた者だけが持つ重みを宿している。
「顔を上げよ」
深く礼をしてから面を上げる。机の脇には書記官と女官が控え、整えられた文書束がいくつも置かれていた。それだけで、今日が単なる呼び出しではないことは十分に伝わった。
「一月、お前を見た」
アウグストゥスは前置きなく言った。
「礼法、舞踏、法、財、陪席、宮廷実務。知識の有無だけではない。考え方も、何を受け取り、何を拒み、どこで線を引くかも見た」
ロゼッタは口を挟まなかった。ここで弁明を重ねるのは違うとわかっていたからだ。
「お前は血統を振りかざさぬ」
皇帝の指先が、机上の文書の端へ軽く触れる。
「その一方で、それを捨てようともしない。帝国の偏りを見て、壊せとも言わぬ。守るべきものと改めるべきものを分けて見ようとしている」
そこで一度、声が切れた。
「気に入らぬ点がないわけではない」
その一言に、ロゼッタはかえって肩の力が抜けるのを感じた。完璧だと告げられるより、よほど自然だった。
「だが、とりわけ見逃せなかったのは、お前が視覚に不自由を持つ者への支えを、思いつきで終わらせず、草案としてまとめ、制度へ載せられる形で差し出したことだ」
ロゼッタは思わず息を止めた。
あの夜ごと書き起こした紙束が、ここまで届いている。その事実が、改めて現実味を帯びて迫ってくる。
「憐れみだけの提案なら、ここでは価値にならぬ。軍事へ流すことを拒みながら、それでも帝国の内で役立つ形へ整えた。あれは情ではない。判断だ」
アイスブルーの瞳が、まっすぐロゼッタへ向けられる。
「血があるだけの娘では、そこまで届かぬ」
褒めるために甘く差し出された言葉ではなかった。だが、それでよかった。見たうえで数えられたのだと、ようやくはっきりわかったからだ。
皇帝は鋭くロゼッタを見据えた。
「先に言っておく。今ここで定めるのは継承の議ではない」
ロゼッタは一瞬だけ目を瞬いた。だが、次の言葉を待つ。
「帝国に継ぐ者が十分にいるとでも思うか。記録を読んだお前なら、そうではないとわかっていよう」
「……はい、陛下」
「だが、姪一人を宮廷へ留め置けば済むほど、帝国の歪みは浅くない」
その声音には、言い逃れではない苦い事実があった。
「お前をこの場へ縛ることだけが、帝国の益ではない。帝国の名を負う者が、他国で軽んじられず、自らの足で立つ。それもまた帝国の益になる」
ロゼッタは息を呑んだ。
囲い込む理屈を持つ人だと、ずっと思っていた。実際、そうすることもできる立場なのだろう。けれど今、皇帝が口にしたのは別の答えだった。
ここに残れと命じるのではなく、どこへ立つかを含めて価値を決める。その判断の大きさが、心の奥へ落ちてくる。
書記官が一歩前へ出た。
「ロゼッタ・マリーニ」
名を呼ばれ、ロゼッタは背筋を伸ばす。
「お前に、アルシア大帝国の皇女位を授ける」
その瞬間、部屋の空気がひときわ重くなったように感じられた。
頭ではわかっていた。一月の終わりには、認められるか退けられるか、結論が出るのだと。最初の書簡にも、相応しいと認められれば皇女として扱うと記されていた。
それでも、実際にその言葉を聞いたときの重みはまるで違う。
皇女位。
それは血があるから、とりあえず与えられる飾りではない。帝国が制度の上で、自分を皇帝に連なる者として認めるということだった。
書記官が定められた文言を読み上げ始める。皇帝の名、帝国の名、授与の理由。その中には、礼法や実務だけでなく、失敗のあとで学び直し、支えを制度の形へまとめたことも明確に含まれていた。
さらに読み上げは続く。
今後の立場を保証する後見人として、アウグストゥス・ディ・アルシア自らが名を連ねること。
ロゼッタはそこで息を詰めた。
読み上げが終わると、皇帝は自ら言葉を継ぐ。
「誤解するな」
冷静で、揺るがない声だった。
「これは鎖ではない。私が後見に立つのは、お前を帝国へ縛るためではなく、今後どこへ立つにせよ軽んじられぬようにするためだ」
ロゼッタは息を潜め、その先を待つ。
「王国へ帰るというなら、それもまたお前の選択として認める」
(……本当に、帰ることまで含めて)
帝国が自分を惜しまぬはずはない。引き止める論理だって持てるだろう。けれど今、はっきりと残されたのは選択だった。
そこで女官が進み出る。白布を敷いた盆の上には、小さな胸章が載せられていた。
金の台座に、一石だけ嵌め込まれたピンクダイヤモンド。
柔らかな紅を宿したその石は、澄んだ奥行きを湛えていた。派手な宝飾ではない。けれど、一目でただの装身具ではないとわかる気配がある。
アウグストゥスがそれに視線を送る。
「祖に由来する品のひとつだ。皇族に連なる者のみが触れられる」
ロゼッタはその意味を悟った。母が言っていた、帝国にも選ばれた者しか触れられぬ品があるという話は、これのことだったのだろう。
「受け取れ」
命じられ、ロゼッタは一歩進み出る。
白布の上の胸章へ手を伸ばす。触れた瞬間に弾かれることはなく、指先へ伝わったのは、石と金属のひやりとした感触だった。そのあまりに自然な手応えが、かえって重い。
制度の上だけでなく、帝国の祖へ連なる証としても認められたのだと、その瞬間にはっきりしたからだ。
(……勝ち取れた)
込み上げるものはあった。だが、ここで涙を見せるのは違う。ロゼッタは目を伏せて、胸章を両手で受けた。
「皇女位を受けるか」
アウグストゥスが問う。
形式のようでいて、そうではない。ここでもまだ、自分に選ぶ余地が残されているのだとわかった。
ロゼッタは胸章を抱いたまま、はっきりと答えた。
「お受けいたします」
声は思った以上に落ち着いていた。
「ただし、私はこの位を、どこかへ留まるためではなく、自分の意志で選んだ場所へ立つためのものとして受け取ります」
皇帝の目が細まる。咎める気配ではなく、そこまで言うかと測るような眼差しだった。
「よかろう」
アウグストゥスは頷く。
「ならば、そのように使え」
その一言で、ロゼッタの中に残っていた最後の曖昧さが消えた。
「陛下」
胸章を手にしたまま、ロゼッタは言う。
「ありがとうございます」
その礼に、皇帝は表情を変えなかった。
「感謝は要らぬ。お前が一月で示したものに、帝国が制度として応じたにすぎぬ」
それから、声をわずかに低くする。
「帰るのであろう」
ロゼッタは迷わず答えた。
「はい」
「ならば帰れ」
突き放したような言い方なのに、不思議と冷たくは聞こえなかった。
「ただし、今後はマリーニの娘としてのみ振る舞えると思うな。帝国はお前を見ている。周囲もそう見る」
「承知しております」
皇女位を得た以上、もうただの侍女でも、ただの子爵令嬢でもいられない。見られ方も、扱われ方も変わる。その流れは、もう始まっている。
「下がってよい」
ロゼッタは深く礼をした。
執務室を出るまで、胸章の重みは手のひらから消えなかった。




