67 気づかれない恋
ロゼッタが広間を出ていったあとも、ミケーレはしばらくその場に立ち止まったままだった。
扉の閉まる音は思いのほか軽く、それなのに、向こうへ去った気配はまだ残っていた。清潔な石鹸と、どこかすっきりした香り。彼女が近くにいるときだけ、ふっと混じるものだ。
舞踏教師は先に下がり、楽士も楽譜を抱えて出ていった。
広間には、もうミケーレ一人しかいなかった。
(友人、か)
先ほど向けられた言葉が、遅れて心の奥へ落ちてくる。
嫌ではない。
むしろ、あの娘にそう言ってもらえたこと自体は、嬉しいはずだった。
それなのに、胸の内へ鈍い痛みが走った時点で、もう答えは出ていた。
ミケーレは窓際へ歩いていく。夕映えを返す窓硝子に、自分の姿がぼんやり映った。榛色に近い茶褐色の髪も、紅玉を思わせる瞳も、今はただ色を深めて見える。
夕方の光は薄く、石床へ影が長く落ちていた。
最初は、ただ目を引いただけだった。
薔薇金の髪を隠さず、しかも王国の色をまとって宮廷へ上がった娘。
皇族の血を持つにしては、不思議とまっすぐで、やけに不用心にも見えた。
そのあとで、失敗の話を聞いた。
宮廷で善意から人の役目へ踏み込み、面目を傷つけかけたという話だった。
そこで終わる娘なら、別に珍しくもない。
失敗して、落ち込んで、数日だけおとなしくして、それで元へ戻る者はいくらでもいる。
しかしロゼッタは違った。
自分で詫びに行き、教えを受け、自分の誤りを書きつけ、そこから残る形へ直し始めた。
しかも、次に会ったときにはもう、聞いていた話より上手に人を助けられるようになっていた。
(あの変わり方には、目を惹かれる)
失敗しないからではない。
失敗のあとで、きちんと変われるから目が離せなくなる。
今日の練習でも同じだった。
詰まった女官へ、すぐには手を出さない。
だが、放ってもおかない。
助けたことを見せつけもせず、相手が自分で立ち直れたように場を整える。
あれは技術だけではない。
そうしたいと心から思っていなければできない。
ミケーレは壁へ肩を預け、ゆっくり目を閉じた。
身分の上下で態度を変えないこと。
助けても、それを恩に着せないこと。
便宜を当然と思わないこと。
教えられたあと、学び直せること。
思い返すほど、好ましいところばかり浮かぶ。
気づけば、広間の中で彼女を目で追っていた。
会話の間の取り方、指先の置き方、緊張していても凜とした立ち姿。そのひとつひとつを、もっと見ていたいと思っていた。
(……参った)
そこでようやく、名前をつけられる。
興味では足りない。
好感だけでもない。
もっと近くで見ていたい。違う顔も知りたい。
自分へ向ける声を、もう少し聞いていたい。
それは、つまり――。
(ロゼッタを、好きになった)
認めたところで、世界が急に変わるわけではない。
ただ、もう引き返せないところまで来ていたのだとわかった。
ミケーレは苦笑する。
よりにもよって、と思う。相手が悪いのではない。むしろ良すぎる。
しかも本人は、まるで気づいていない。
帝都で心強い。頼りになる友人。
あまりに自然に、そう言われた。
雑に扱われたわけではない。
だからこそ、その無邪気さが、かえって堪えた。
(でも、それでいいのか)
もし彼女が誰にでも同じ顔を向けるのなら、ここまで惹かれなかったかもしれない。
好意を利用せず、相手を雑にせず、それでいて変に思わせぶりでもない。そういう在り方ごと、ミケーレは好ましいと思ってしまっている。
窓の外へ目を向けると、空の色はもう青を失っていた。
そのとき、今日のロゼッタの横顔が蘇った。
褒められて嬉しそうにしながらも、最後には帝都の外、王国の方角を思うような目をしていた。
帝都で認められたいと言いながら、その先にはちゃんと戻る場所を持っている顔だった。
青と金の飾りも、まだ外していない。
(……そういうことか)
はっきり聞いたわけではない。
それでも、あの薔薇金の娘の心が、帝都の中だけで完結していないことくらいはわかった。
ミケーレは小さく息をついた。
なら、踏み込むべきではない。
少なくとも今は。
助けることと、奪うことは違う。
あの娘は、つい最近その違いを身をもって知ったばかりだ。
ならば自分も同じだろう。
好いたからといって、相手の向かう先へ割って入ってよいわけではない。
友人として差し出せるものがあるなら、それを渡せばいい。
それ以上は、相手が選ぶことだ。
(ずいぶん、あの娘らしい考え方に引っぱられているな)
そう思って、ミケーレは短く笑った。
もう一度だけ、先ほどの声を思い出す。
――とても頼りになる友人です。
甘くはない。
だが、冷たく突き放す響きでもない。
「……参ったな」
誰もいない広間に、呟きが落ちた。
それでも、口にしてみると気持ちは不思議と定まった。
認めてしまえば、あとは胸の内に留めておけばいい。
今はそれで十分だった。
窓の外の光が、星の瞬きへと変わっていく。
ミケーレは壁から背を離し、広間の出口へ向かった。
(王国の第一王子は、ずいぶん幸運な方のようだ)
まだ確かめたわけではない。
だが、あの娘があんな目で帰る先を思うのなら、たぶんそうなのだろう。
そう考えても、不思議と苦くはなかった。
ただ、自分が遅かったのだと悟っただけだった。




