66 帝都でできた友人
皇帝との問答から二日後、ロゼッタは夕刻前の小広間へ呼ばれていた。
今夜は大きな社交の場ではない。とはいえ、皇族や高位貴族に連なる者が顔を合わせる、小さな茶会があるという。その前に、挨拶の順、会話の切り方、舞踏の手順をひと通り確かめる必要があった。
しかも今夜の茶会には、ベルニ侯爵家の嫡男であるミケーレも同席するらしい。舞踏教師が「実際に顔を合わせる相手と練習した方が良い」と判断し、彼がそのまま相手役を引き受けてくれたのだと、先に女官から聞かされていた。
広間の中央には、すでにミケーレ・ベルニが立っていた。
榛色に近い茶褐色の髪に、深い赤の瞳。派手さで目を引く人ではないのに、佇まいには品があり、清潔感と知性で印象に残る。立ち居振る舞いには、二十二歳という年齢以上の風格があった。
「お待たせいたしました」
「いや、こちらも今来たところだよ」
穏やかな声音だった。
それだけで、張りつめていた気持ちがほどける。
今日は舞踏教師と、立ち会いの女官が控えていた。舞踏教師は手元の帳面を閉じてから、二人へ目を向けた。
「今夜は長く踊る場ではございません。ですが、二曲目までの誘い方、断られたときの退き方、会話を続けたままの足運びは確認いたします」
その説明を聞いて、ロゼッタはふと気づいた。
ミケーレが相手役を務めることに、自分が何の違和感も覚えていないのだと。
「……ミケーレ様、お手数をおかけしてしまって」
「そう思うなら、うまく頼ってほしいな」
軽い口調だったが、響きは優しい。
恩を着せる気配はない。ただ、気にしすぎるなと言われているのだとわかった。
「今日は、まず歩幅から合わせようか」
「はい」
差し出された手へ、自分の手を重ねる。
ルチアーノとの舞踏練習を思い出さなかったわけではない。だが、今ここにあるのは別の種類の緊張だった。見えない方を支えるための近さではなく、見える者同士が場の中で崩れないための距離である。
ミケーレの手は安定していた。
強く引かず、それでいて迷わせもしない。
「一歩目は小さくていい。君は姿勢がまっすぐだから、急いで大きく出る必要はない」
「はい」
音楽が始まった。
ゆったりとした三拍子に合わせて、二人は広間を回る。
ミケーレの導きはわかりやすかった。次に何をするのかが、押しつけられる前に自然と伝わる。おかげで、ロゼッタも必要以上に身構えずに済んだ。
「今の角度で合っていますか?」
「そうだね。目線をほんのわずか上げた方がいいかもしれないな」
「こうでしょうか」
「ああ。その方が、気後れしているようには見えない」
さらりと言われて、ロゼッタは思わず笑った。
「私、そんなに慎重でしたか?」
「多少はね。とはいえ、それ自体が悪いわけではないよ」
ミケーレは足を止めずに続ける。
「君は相手をよく見てしまうんだろう。だから、自分の返しが一拍遅れる」
「……それは、失礼でしょうか」
「相手によるかな」
音楽に合わせて、滑らかに向きを変える。
「急かされているように感じる人もいる。逆に、しっかり聞いてもらえたと安心する人もいる」
「では、見極めるしかありませんね」
「そうだね。場数を踏んで見極めるしかない」
その答えが、なぜかロゼッタには嬉しかった。
曖昧に褒めるのではなく、難しいものは難しいと、きちんと言葉にしてくれる。
曲が終わると、舞踏教師が頷いた。
「足運びは問題ありません。次は会話を交えて」
控えていた女官が、今度は若い令嬢役として前へ出た。練習用のやり取りなのだろう。ロゼッタはミケーレと並んで小机のそばへ移る。
季節の挨拶から始まり、領地の話、帝都の印象、舞踏会での定番の話題が順に出される。ロゼッタもそれに答えていたが、途中で令嬢役の女官がふと詰まった。
「国境沿いは、冬の……その……」
答えようとして、言葉を失っている。恐らく、次に言うはずの文言を忘れたのだろう。
ロゼッタは、そこで待った。
すぐに助け舟を出さず、ひと呼吸だけ。
女官の視線が彷徨い、それでも言葉が出ないとわかったとき、ようやくロゼッタは微笑んだ。
「冬の備えは、王都より早く始めます。私も帝都へ来て、灯りの使い方が少し違うのだと知りました」
それだけ言って、相手へ視線を返す。
「こちらでは、冬支度にどのようなものを使われるのですか」
問いを差し出された女官は、ほっとしたように息をついた。
「ええと……帝都では、厚手の織物と、夜会用には薄い手袋を重ねる方もおります」
そこから会話は続いた。
ロゼッタは一度も、相手の失敗を埋めるようには話さなかった。ただ、次の言葉が出やすいところへ話を繋いだだけだった。
練習が終わると、舞踏教師は別の帳面を開きながら部屋の端へ下がる。女官も一礼して退いた。
ミケーレが、ロゼッタへ向き直った。
「今のはよかった」
「……何がでしょう」
ロゼッタは本気でわからず、首を傾げた。
「支え方だよ」
「支える、というほどのことでは……」
「君は相手が立て直す間を待てる」
ミケーレはきっぱり言った。
「間、ですか」
「そう。すぐに答えを出してしまえば、相手は助けられる前に潰れる」
ロゼッタは数日前の失敗を思い出し、思わず指先を握った。
その変化に気づいたのだろう。ミケーレの声に、ほんのりと熱が宿る。
「しかも、君は助けた顔をしない」
「そんなこと……」
「していないよ。そこがいい」
言われ慣れない言葉だった。
褒められているのだとわかるのに、どう受け取ればいいのか少し迷う。
「一度教わったことを、次の場できちんと使える。相手の身分で、礼の尽くし方を変えない。そういうのは、思っているより難しい」
ロゼッタは目を伏せた。
「……失敗したからです」
「失敗だけなら、誰でもする」
「では、何が違うのでしょう」
「その次だよ」
ミケーレは口元を緩めた。
「失敗したあとで、自分の形を変えられるかどうかだ」
その言葉は、ロゼッタにとって深く納得できるものだった。
帝都へ来てから、試されていると何度も感じた。礼法も、舞踏も、作法も。
けれど今言われたのは、技術ではない。もっと別のところだった。
(見てもらえていたのね)
血筋でも、髪の色でもなく。
「ありがとうございます、ミケーレ様」
「こちらこそ。今日は楽だった」
「楽、ですか?」
「ああ。君は人の呼吸をよく見る。合わせる相手としてはありがたい」
そこまで言われると、さすがに照れてしまう。
ロゼッタは視線を逸らし、それでも笑った。
「帝都で、ミケーレ様のような方がいてくださって、本当に心強いです」
「……そう」
返事は短かったが、冷たくはなかった。
むしろ、間を置いた分だけ、何かを飲み込んだようにも聞こえた。
「友人としては、悪くない評価だね」
「はい。とても頼りになる友人です」
そう言い切ると、ミケーレは一瞬、瞳を揺らしてから、いつものように柔らかな笑みを浮かべた。
「それなら、今日の役目は果たせたかな」
広間の窓の外では、帝都の夕暮れが石畳を薄く染めている。
帝国へ来たばかりの頃は、どこを向いても試されているようで息が詰まった。今は、この広い宮廷の中にも、構えずに話せる相手が一人いる。
(友人ができた)
その存在は、ロゼッタにとって思った以上にありがたかった。
帝都でできた友人は、想像していたよりずっと頼りになる人だった。




