65 皇帝の問い、ロゼッタの答え
――ならば、お前の申す支えとやらは何だ。
その問いが、静かな執務室の中でロゼッタへ鋭く刺さった。
ロゼッタは膝の上で組んだ指へ、そっと力を込める。逃げ道のない問いだった。だからこそ、中途半端には答えられなかった。
「まず、見えにくくなっても判断まで奪わないことです」
それは、前世の弟にも、今世のルチアーノにも通じることだった。
「文書の置き場所を固定すること。読む順を揃えること。補佐する者が勝手に要約や結論を足さず、必要な情報だけを差し出すこと。部屋の動線を変えるなら、その都度きちんと伝えること」
ひとつずつ、順に大切だと思うことを挙げていく。
「薬瓶や文箱、書類の束にも、触れてわかる違いを持たせられます。取っ手や札に小さな印をつければ、目だけに頼らず扱えます」
「ずいぶん細かいな」
「細かなことほど、判断を守ります」
口にしたあとで、少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。
けれどアウグストゥスは咎めない。
「支えとは、大きなことだけではございません。本人の手元へ、最後の確認を残すことでもあります」
「最後の確認、か」
「はい。読む者と決める者が別でも、決裁そのものを奪わぬように」
皇帝は黙って聞いていた。
拒まれてはいない。
ならば、もう一歩進める――そう考えかけたとき、アウグストゥスが先に口を開いた。
「草案の末尾にあったな。視覚による読字に頼らぬ方法、と」
ロゼッタはひとつ瞬きをしてから、皇帝を見据えた。
「はい、陛下」
「点や凹凸を並べる文字のことか」
「はい。まだ広く使えるほど整ってはおりません。私も完全な形を知っているわけではございません。ですが、視覚に頼らず、自分で読んで自分で確かめる助けになります」
皇帝の眼差しが鋭くなる。
「密命にも使えそうだな」
その反応は、予想していた。
ロゼッタは間を置かずに答える。
「だからこそ、先にその用途へ流してはならないと考えております。草案にもそう書きました」
室内の空気が冷えた。
それでもロゼッタは退かなかった。
「最初から軍事や密書へ回せば、見えない方が自分で読むためのものが、別の目的に奪われます。私は、それを望みません」
「皇帝に線を引くか」
威圧感のある問いだった。
「引かなければ、本当に必要な人の手に届かなくなるからです」
ロゼッタは怯まず述べた。
「見えないからといって、学ぶことや判断することを諦めずに済むようにしたいのです。そのためのものとして扱っていただきたいのです」
そこまで言い切ってから、ようやく自分の手が汗ばんでいることに気づいた。
怖くないわけではない。
けれどここを明確にしなければ、前世の弟も、今世のルチアーノも、そしてこれから先の誰かも、また見えないから他に任せるしかないと決めつけられる。
それだけは、譲れなかった。
長い沈黙のあと、アウグストゥスは背もたれへ身を預けた。
「……ヴェロニカらしい娘だと思ったが、少し違うな」
ロゼッタは姿勢を正したまま崩さない。
「妹は去ることで抗った。お前は残る形を差し出しながら、奪わせぬ線を引く」
それが良い評価なのか、戒めなのか、すぐには読み切れない。けれど初日の視線とは違うものが、今の皇帝の目に宿っていた。
血を見るだけの眼差しではない。
「下がってよい」
退出の許可が下りる。
ロゼッタは深く礼をし、執務室をあとにした。
◇ ◇ ◇
廊下へ出たところで、ようやく張りつめていたものが少しだけ緩んだ。
うまく答えられたのか、踏み込みすぎたのか、自分でもまだわからない。
ただ、後悔だけはなかった。
「その顔なら、無難に答えるだけでは済まなかったようだね」
聞き慣れた柔らかな声に、ロゼッタは顔を上げた。
壁際に立っていたのは、書類を抱えたミケーレだった。恐らく別件で呼ばれていたのだろう。
「ミケーレ様」
「言うべきことは、きちんと伝えてきたようだ」
ロゼッタは一瞬、何と返すべきか迷った。
しかし、背の高いミケーレをまっすぐに見上げて告げた。
「……言うべきことは申し上げました」
「嫌われるかもしれないと思っても?」
「はい」
ミケーレは息をつき、どこか納得したように微笑んだ。
「やはり、そういう人か」
その一言が、なぜか心に残る。
意味を尋ねる前に、彼は話題を変えるように言った。
「戻るか? 今のうちに、自分が何を言ってきたのか整理した方がいい」
「そんな顔をしていますか」
「ああ。陛下から答えをもらってきた顔じゃない。自分の答えを、しっかり示してきた顔だ」
ロゼッタは、少しだけ目を見開いた。
言い当てられた気がした。
褒められたというより、見抜かれた方が近い。
「……それなら、よかったです」
ミケーレはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、廊下の端へ身を引き、先へ進む道を空ける。
「では、また」
「はい。失礼いたします」
ロゼッタは一礼し、そのまま自室へ向かった。
胸の鼓動はまだ速い。
けれど、見られているのは血筋だけではないと、今日の問いでよくわかった。
(試されている)
礼法や舞踏だけではない。
何を見て、どこで線を引き、何を守るかまで含めて。
ならば、ここで怯んではいけない。
自室の机へ向かいながら、ロゼッタはそっと唇を引き結ぶ。
皇帝の最後の言葉は、まだ耳に残っていた。
ヴェロニカらしい娘だと思ったが、少し違う。
それはたぶん、血があるだけの娘ではないと、ほんの少し見られ始めたということだ。
一月は短い。
だが、自分の意志で立つ場所を勝ち取るには、十分な長さでもある。
ロゼッタは机上の紙へ手を伸ばした。
帝国での試験は、いよいよ彼女そのものを量り始めていた。




