64 記録が示す歪み
ミケーレに図書室の奥を案内されたあと、ロゼッタはそのまま席へついた。
宮廷図書室の奥深い場所は、昼でも静かだった。外の光から遠ざけるように並ぶ書架には、皇族と高位貴族に関する古い記録ばかりが集められている。婚姻記録、出生記録、病歴の抜粋。どれも飾り気のない厚い帳面だが、頁をめくるほど、この帝国が何を守ろうとしてきたのか、嫌でも伝わってきた。
同じ家名が、少し形を変えながら何度も現れる。
皇族。
そのごく近しい高位貴族。
さらに、その周囲の限られた家々。
血を守るために、近しい血同士を重ねてきた跡が、記録の端々に残っていた。
ロゼッタは婚姻記録の頁を指先で追う。
婚姻後六年、後継なし。
第一子、産声弱く、春を越えず。
第二子、冬ごとの熱に悩み、成人後も肺の病あり。
別の家の記録にも、似た文言があった。
七年子なし。
三子のうち二子、幼くして死去。
成長後も身体が弱く、公務を減ず。
(……やはり)
ロゼッタは前世で耳にした知識を思い出した。
近い血が重なり続ければ、子を授かりにくくなったり、生まれた子の身体が弱くなったりすることがあると。仕組みを詳しく説明できるほど知っているわけではない。ただ、そういう偏りが起こりうることだけは知っていた。
そして今、目の前の記録は、それを別の形で裏づけている。
子を得られなかったという記録。
幼くして身体を弱らせたという覚え書き。
成長しても病を抱えたままだったという追記。
それらが、思っていたよりずっと多い。
血を守ろうとするほど、血そのものが細っていく。
そんな皮肉が、頁を繰るたび濃くなっていった。
さらにロゼッタの目を引いたのは、現皇帝アウグストゥス・ディ・アルシアについての記述だった。
幼少期より発熱多し。
咳、長く残ることあり。
寒暖差により体調を崩しやすし。
冬季の公務は負担に留意。
一方で、近年の覚え書きには、それまでと少し違う文言も混じっていた。
細字の確認に時を要す。
灯りの位置を調整。
決裁補佐の順を固定。
夜の長文閲覧を控えること。
(お母様のお話だけでは、ここまではわからなかったわね)
母は兄が身体の強い方ではないと言っていた。だが記録は、それを情ではなく事実として突きつけてくる。
後継は乏しい。皇帝自身の身体も強くはない。
ならば、一人に集まる重みは、想像していた以上だった。
「思っていたより、深いところまで読み進めているね」
顔を上げると、少し離れた書架の整理を終えたらしいミケーレが、こちらへ歩いてきていた。
「見た方がよいと、ミケーレ様が教えてくださいましたから」
「教えたのは棚までだよ。読むと決めたのはロゼッタだ」
その言い方が、ミケーレらしかった。手は差し出す。けれど決めるのは相手に任せる。
ミケーレはロゼッタの前に置かれた頁へ視線を向け、それから目を細めた。
「気分のいい記録ではないだろう」
「はい」
ロゼッタは正直に頷いた。
「けれど、目を逸らしたくはありません」
「そうだろうと思った」
柔らかな声音だったが、そこに軽さはない。
「その顔なら、都合のいいところだけ拾って納得はしないだろうね」
そのとき、図書室の入口から女官が入ってきた。
「ロゼッタ様、陛下がお呼びです」
ロゼッタの背筋が自然と伸びる。
「承知いたしました」
記録を閉じて立ち上がると、ミケーレが一歩だけ脇へ下がった。
「行っておいで」
「……はい」
その一言に、不思議と心が落ち着いた。
◇ ◇ ◇
通されたのは、謁見の間ではなく皇帝の執務室だった。
室内へ入った途端、ロゼッタは以前よりも細部へ目が向いた。
強い光が真正面から差し込まぬ位置に机が置かれていること。文書の束が乱れなく揃えられていること。薬湯の位置、鈴の位置、決裁前らしい書類の位置まで、恐らく決められている。
玉座で見たときより近い距離にいる皇帝アウグストゥスは、やはり端整な顔立ちをしていた。薔薇金の髪は乱れなく整えられ、アイスブルーの瞳は冷ややかといえるほど澄んでいる。
けれどその下に、消しきれない疲労も見えた。
「奥の記録を読んだか」
挨拶ののち、皇帝は前置きなく言った。申請の許可を出した司書から、図書室の奥へ入ったことが伝えられているのだろう。
「はい、陛下」
「あの草案も見た」
「……草案を、でございますか」
思わず問い返しかけて、ロゼッタはすぐに口を閉じた。女官局と実務へ回ると言われた以上、皇帝の目に触れていても不思議ではなかった。
アウグストゥスは表情を変えない。
「記録と、お前の草案だ。合わせて何が見えた」
感想ではなく、判断を求める問いだった。
ロゼッタは答えを急がなかった。軽く言えば浅く見られる。慎重にしすぎれば、萎縮した娘に映る。
「皇族と高位貴族の婚姻が、近しい家同士へ寄りすぎていることが見えました」
「それだけか」
「いいえ」
ロゼッタはまっすぐに皇帝の目を見つめる。
「子を授かりにくい記録も、身体の弱い子が多いことも、記録に残っております。血を守るための形が、巡り巡ってその血を細らせているのではないかと感じました」
室内の空気が、そこで少し張りつめた。
「帝国が誤っていると申すか」
声は低いが、怒気は含んでいない。けれど試す響きがあった。
「誤りだと切り捨てるつもりはございません」
ロゼッタは首を横に振る。
「血を守ることが、この国にとって重い意味を持つのだということはわかります。ですが、守るための繋がりが、同じところばかりを巡れば、やがて継ぐ者自身が弱っていきます」
そこで一度息を整えた。
「それに、継ぐ者が少なければ、一人に集まる重みも増えます」
アウグストゥスの指先が、机を軽く打つ。
「ならば、どうする」
「人を駒にしないことだと思います」
その答えは、驚くほど真摯な響きを帯びていた。
「継ぐ者が少ないからこそ、一人に全てを抱え込ませないことです。その方だけに国の重みを背負わせるのではなく、支える仕組みを厚くするべきです」
「支える仕組み、か」
ロゼッタは頷いた。
「はい。学ぶ者、補佐する者、記録する者、見えないところを整える者。そのいずれかが薄ければ、継ぐ者が弱ったときに、国そのものが揺らぎます」
そこでふと、数日前の失敗が胸をよぎった。善意のつもりで手を出し、相手の面目を傷つけた。あのとき、自分は何を間違えたのか。
「私も、ここで一度間違えました」
ロゼッタは正直に述べた。
「支えるつもりで、人の役目へ手を出しました。必要だったのは、私の善意ではなく、その人が自分の判断を残したまま役目を続けられる形だったのに」
皇帝がロゼッタへ鋭い眼差しを向ける。
「それを、国にも重ねるのか」
「はい。恐れ多いことではございますが、似ていると思います」
ロゼッタは膝の上で指を組んだ。
「大切なのは、役目をなくすことではありません。役目を果たせる形へ整えることです。あまりに近しい家ばかりを巡る形も、少しずつ改めていく必要があるかと存じます」
「外へ広げろと」
「血を捨てよとは申しません」
ロゼッタは落ち着いて答えた。
「ですが、同じところばかりを巡る形は、この先の帝国を細らせます。守るための制度なら、守れる形へ改める必要があるのではないでしょうか」
皇帝は押し黙った。はっきり言い過ぎたのかもしれない。けれど、ここで引けば、自分の答えまで曖昧になる。
「……記録だけを追った者の顔ではないな」
アウグストゥスが不意に言った。
「私の記録を読んだだけではない顔をしている」
ロゼッタは息を詰める。気づかれている。
「失礼を承知で申し上げます」
言うなら、今しかない。
「陛下は、細かな文字をご覧になる間が少し長いようにお見受けします。灯りの差し込みも、強い方を避けておられる。お疲れだけではなく、見え方そのものに変化があるのではないでしょうか」
無礼と取られてもおかしくない踏み込みだった。だが、皇帝は怒らなかった。瞑目してから、ゆっくりと息をつく。
「そこまで見ているか」
それは、認めたも同然だった。
「ならば、お前の申す支えとやらは何だ」
ロゼッタは、息を呑んだ。
この問いにどう答えるかで、自分が何を見てきた娘なのかが決まるのだと、ロゼッタは悟った。




