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盲目王子の専属侍女── 一歩先を導く侍女と追放王子の逆転劇  作者: チャーコ


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60 支えるつもりで、奪ってしまった

 帝都へ来て四日目の午後、ロゼッタは陪席作法の講義を終えたあと、宮廷女官たちが使う控えの間へ呼ばれていた。


 その夜に予定されている小さな茶会の準備で、人の手が足りないらしい。席次札の並べ替えと客名簿の確認、それに盆へ載せる招待札の順を崩さないよう見届ける補助である。帝国の宮廷では、こうした細部の乱れひとつで、その家へ向ける信頼まで揺らぐのだと、ここ数日で嫌というほど教え込まれていた。


 控えの間には、年若い女官たちだけでなく、年を重ねた女官補佐の姿もあった。皆、手を止めずに動いている。机の上には細かい字で書かれた札がいくつも並び、窓際には名簿を写した帳面が重ねられていた。


 ロゼッタは与えられた席次札を順に揃えながら、部屋の奥にいる年配の女官補佐へ何度か目を向けた。


 髪はきっちりと結い上げられ、所作に無駄がない。若い女官が札を置く位置を迷えば、短く正確に指示を出す。


「そのお名は西列ではなく南列です。今朝、訂正が入っていますよ」

「失礼いたしました」

「慌てなくて結構です。確認してから置けば乱れません」


 声音は穏やかだったが、仕事ぶりは的確だった。誰より手を動かしながら、場の乱れも見逃していない。


 ただ、名簿へ目を移すたび、ほんのひと呼吸だけ指が止まる。窓から差す光の向きが変わると、紙を持つ位置を変え、時折こめかみのあたりへ指を当てていた。


(……文字を追うのに、少し手間がかかっているのかしら)


 ロゼッタがそう思ったのは、ごく自然なことだった。

 厳格な女官長代理が、次の作業を指示する。


「西列の席札を先に揃えてください。名簿と照合したあと、青の盆へ。順を違えぬように」


 返事が重なり、控えの間の空気がいっそう引き締まる。


 ロゼッタも「はい」と答え、目の前の札へ意識を戻した。そのとき、部屋の奥で紙の擦れる乾いた音がした。


 顔を向けると、先ほどから気になっていた女官補佐が、帳面と席札の束を持ったまま机の上で手を止めている。落としたわけではない。ただ、次に置くべき札を確かめる指先が、ひと呼吸だけ止まっていた。


 隣で作業していた若い女官が、気づいたようにそちらを見た。

 その一瞬に、ロゼッタの胸がひやりとした。


(ここで滞れば、あの方が手間取っているように見える)


 そう思った途端、身体が先に動いていた。ルチアーノの傍で、ほんの少しの躓きも見逃さぬようにしてきた癖が、確認より早く前へ出る。


「そちら、私がやります」


 声をかけながら歩み寄り、ロゼッタは女官補佐の手元を見た。帳面を支え、札の束を机へ移し、開かれていた名簿へ目を通す。


「西列三番、オルディーニ伯爵夫人ですね。その次が――」


 そこまで口にしたとき、部屋の空気が変わったことに気づいた。


 音が消えていた。

 誰も手を止めるはずのない場で、紙をめくる音も、札を置く音も途切れている。


 ロゼッタは名簿から顔を上げた。


 正面に立つ女官補佐は、驚いた顔すらしていなかった。ただ、表情を動かさないままロゼッタの手元を見ている。その沈黙が、叱責よりも重く心にのしかかった。


「……ありがとうございます、ロゼッタ様」


 声は落ち着いていた。


「ですが、これは私の役目です」


 その一言で、自分が何をしてしまったのか、ロゼッタにもわかった。


 助けたつもりだった。場を止めたくなかった。あの一瞬を、周囲に遅れとして見せたくなかった。


 人前で帳面を取り、札を読み上げた。それだけで、女官補佐が小さな文字に手間取っているのだと周囲へ示したも同然だった。


 ロゼッタの喉が引き攣る。


「申し訳、ございません。私――」

「札を戻してください」


 女官補佐は淡々と言った。


 告げられた通り、ロゼッタは手元の帳面と札を戻す。女官補佐はそれを静かに受け取り、何事もなかったかのように机へ向き直った。そして今度は自分の手で名簿を確かめ、順を追って盆へ札を載せていく。


 指先に迷いはない。慎重ではあるが、順を違えもしない。

 その姿が、なおさら胸に刺さった。


 ロゼッタは自分の席へ戻ろうとしたが、足がうまく動かなかった。指先が冷えて、顔だけが熱い。


 女官長代理が、その場で何も言わなかったのが、なおさら堪えた。叱られればまだ単純だっただろう。けれど帝国の宮廷は、感情で場を乱すことをよしとしない。ただ事実だけが残る。


 ロゼッタ・マリーニは、人前で年長の女官補佐の役目へ手を出した。

 それが今、この部屋に重く残っている。


 その後の作業の記憶は、ところどころ曖昧だった。札を並べる。盆を替える。呼ばれれば返事をする。それだけは崩さなかったが、頭の中では同じ問いが何度も巡っていた。


(私は今、何をしたの)


 控えの間を辞する頃には、外はもう薄く暮れかけていた。

 回廊へ出ると、ようやく息をつけるはずなのに、胸のつかえは少しも軽くならない。窓辺に寄って手を止めると、先ほどの場面が鮮やかに蘇ってきた。


 返事を待たずに近づいたこと。帳面を受け取ったこと。札を読み上げたこと。


 ――確認なしに、先回りした。


 それは、ロゼッタが最も避けるべきだと知っていたやり方のはずだった。


 ルチアーノの傍でなら、求められる前に杯を寄せることも、段差の位置を告げることもある。けれど、それは相手の癖も、望む支え方も知ったうえで差し出す手だ。返事も待たず、人前で役目ごと取り上げるような真似とは違う。


 なのに、あの女官補佐にはしてしまった。


(支えるつもりで、奪ってしまった)


 その認識が、遅れて胸へ突き刺さる。


 歩き出しかけたところで、背後から声がかかった。


「今、何が起きたのか、おわかりになりますか」


 振り返ると、作業を指示していた女官長代理が立っていた。灰色がかった髪を結い上げ、感情を表へ出さない顔立ちをしている。けれど、声に冷たさはなかった。


 ロゼッタは姿勢を正す。


「……確認もせずに、手を出しました」

「それだけではありません」


 女官長代理は一歩近づいた。


「この宮廷で役目を果たしている者は、働く姿そのもので信用を保っています。人前で『任せるには不安があるのではないか』と見られれば、その者の役目は次から軽く扱われるかもしれません」


 ロゼッタの手が、無意識に握りしめられる。


「助けが不要なのではありません。必要なのは、どの場で、どの形で、誰の判断として差し出されるかです。本人の望まぬ形の補助は、支えではなく、その者の立場を崩す刃にもなります」


 厳しい言葉だった。だが、突き放すためではないとわかる。

 ロゼッタは深く頭を下げた。


「申し訳ございません」

「謝る相手は私ではありません」


 もっともな返答だった。


「ですが今は、追いかけて再び相手の立場を揺らさぬことです。まず自分の中で、何を誤ったのかを言えるようになりなさい」


 そう告げると、女官長代理はそれ以上責めずに去っていった。

 ロゼッタはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて自室へ戻った。


 夜になっても眠気は来なかった。


 机の上には翌日の教材が積まれている。法の抜粋、礼法の補足、財に関する初歩の記録。どれも無視できない。けれど今夜、それより先にしなければならないことがあった。


 紙を引き寄せ、筆を執る。

 最初の一行が、なかなか書けない。


 何を書けばいいのかではない。何を認めるべきかが、ようやくはっきり見えてきたからだった。


 しばらくして、ロゼッタは小さく息をつき、紙へ文字を綴った。


『確認をする前に、手を出さないこと』


 続けて書く。


『人前で役目を奪わないこと』

『助ける形は、相手が選べるように差し出すこと』

『困りごとを支えることと、できない者として扱うことは違う』


 書きながら、指先が少し震える。自分の誤りをそのまま文にするのは、思っていたより胸が痛かった。

 それでも止めなかった。


 薬瓶や文箱の印、文書の置き方、補佐の順序、呼びかけの仕方、手を貸す前に確認を挟む段取り。考え直せるものを、思いつく限り書き出していく。


 前世の弟にも、今世のルチアーノにも、自分は「支える」と言いながら、ずっと同じことを大事にしてきたはずだった。なのに帝国へ来た途端、その原則を場の忙しさに押されて踏み外した。


 急いでいたから。

 善意だったから。

 困らせたくなかったから。


 そんな言い訳は、相手の尊厳を傷つけたあとでは何の役にも立たない。

 筆を持つ手に力がこもる。


(次は、間違えたくない)


 誰かを助けるつもりで、その人の役目や面目まで奪うようなことは、もうしたくなかった。

 紙の余白へ、ロゼッタはさらに一行を書き足す。


『謝罪は、人目のないところで。必要な形は、決めつけずに確かめること』


 そこまで書いてから、ようやく胸の中が少しだけ整理された。


 明日、女官長代理へ願い出よう。

 私的にお詫びを申し上げる機会をいただきたい、と。


 謝って終えるためではない。

 どの形なら、役目を傷つけずに手を貸せるのかを、学ぶために。


 部屋の灯りが小さく揺れる中、ロゼッタは夜が更けていくのも忘れて書き続けた。


 その夜、ロゼッタが紙の上へ書き起こしたのは、新しい知識ではない。

 支えるつもりで奪ってしまった、その失敗を二度と繰り返さないための、最初の草案だった。

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