59 帝国短期留学
帝都の宮廷で皇帝と初めて謁見する朝、ロゼッタは部屋に備えられた鏡の前で、最後に自分の姿を確かめていた。
人前へ出るたびに染めていた髪は、もう隠していない。肩から背へまっすぐ流れる薔薇金の髪は、光を受けるごとに柔らかな艶を返し、自分がここへ何者として来たのかを否応なく示している。耳の上から後ろでまとめ、残りを下ろした髪型は華やぎに寄りすぎず、清潔感を際立たせていた。
身にまとったのは、青を基調に金糸の刺繍を施したドレスだった。深い海を思わせる青に、動くたび金が控えめに光を返す。飾り立ててはいないが、布地の質と仕立ての良さは一目でわかり、宮廷へ上がるのに不足はない。しかも、その色の選び方はあまりにも明白だ。
この服は、大切な人からの贈り物だった。
王国を発つ前、離宮から届けられた箱の中に、同じ色の上品なリボンとともに納められていた。添えられていた文には、二人だけの秘密の文字が刻まれている。
――帝国へ行くなら、これを着て行ってほしい。
短い一文にすぎなかった。けれども、青と金が誰の色かなど考えるまでもない。
(お慕いしているけれど、ずるい方だわ)
行くなとは言わない。その代わり、遠い帝国の宮廷まで自分の色をまとってほしいと差し出してくる。命令ではないのに断りづらいところまで、あの方らしかった。
ロゼッタは鏡の中の自分を見つめる。
蜂蜜色の大きな瞳が前を向くだけで、そこには強い意志の光が宿る。背筋は自然に伸び、息を使うアウレア笛を吹いてきた呼吸の深さが、そのまま立ち姿の安定に現れていた。
(私は殿下の隣に立つために、ここへ来た)
その思いを胸に、案内の女官について部屋を出る。
帝都の宮廷は、王国の王宮とは空気が違った。広い回廊も、吹き抜けの天井も、豪華さより先に長い歴史の重みを感じさせる。すれ違う者たちは露骨に立ち止まりはしないが、薔薇金の髪へ集まる視線までは隠せない。
やがて、謁見の間の手前で女官が足を止めた。
「間もなく、お呼びいたします」
そう告げられても、ロゼッタは返事をするのがやっとだった。扉の向こうにいるのは、母の兄であり、この帝国の皇帝である。血が繋がっていると聞いても、情があるとは限らない。むしろ、血があるからこそ試されるのだと、ここへ来るまで何度も自分に言い聞かせてきた。
呼び出しの声が響き、扉が開く。
ロゼッタは姿勢を正し、まっすぐ前を向いたまま広間へ足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
アウグストゥス・ディ・アルシアは、謁見の間へ入ってきた娘を見た瞬間、視線を止めた。
陽の光が白い石床で跳ね返るのを、近頃の彼は少し煩わしく感じる。そのため今日は、玉座脇の幕を深く下ろさせていた。若い頃は意識にも上らなかった眩しさが、今は目の奥へ鈍い疲れを残すことがある。離れた位置の人物を見極めるにも、以前より半拍多くかかることを、彼自身だけは知っていた。
それでも、あの娘の髪色ばかりは見誤りようがなかった。
薔薇金の髪。蜂蜜色の瞳。顔立ちには、確かに妹ヴェロニカの面影がある。だが、同じではない。ヴェロニカは感情を深く沈めたまま相手を見る女だったが、目の前の娘は違う。緊張を抱えたまま前を向いており、退く気配を見せない。
(ヴェロニカに似ている。だが、違う)
美しい娘だ、とアウグストゥスは思った。
派手な類の美貌ではない。印象に残るのは髪色ばかりではなく、礼のために頭を下げたときも背中の線が崩れず、軸がぶれないことだった。近くで見れば見るほど、身体の芯が強いのだとわかる。
だが、それ以上に目を引いたのは装いだった。青と金。帝国へ迎えられるかもしれぬ場で、よりによって王国の第一王子を思わせる色をまとっている。その胆力は嫌いではない。どこから来たのかを捨てずに立とうとしているのだと、それだけで伝わった。
深く礼をする娘に向かって、アウグストゥスは淡々と告げる。
「顔を上げよ」
ロゼッタが面を上げる。その表情を見て、アウグストゥスは内心で評価を改めた。大きな瞳には揺るぎない強さがあり、この場を受け止めようとしているのがわかる。美しさばかりでなく、覚悟の持ち方が悪くない。
「返書は読んでいるな」
「はい、陛下」
ロゼッタの返答は、滑らかな帝国語だった。
「ならば話は早い」
皇帝は肘掛けに指を置いた。
「お前を一月、宮廷へ留める」
それは招待ではなく、裁定に近い響きだった。
「客としてではない。ヴェロニカの娘だからといって、座を与えるつもりもない。皇帝に連なる者として、そして皇女として扱うに足るかどうか、そのために見る」
広間の空気が引き締まる。
「礼法、舞踏、社交、法、政治、判断。宮廷で求められるものは一通り示す。お前が血に見合うかどうかではない。そこへ立つ器があるかどうかを測る」
ロゼッタは顔色を変えずに聞いていた。強がっているのではなく、真正面から受け止めているのだとわかる。
「血があるから試練が軽くなることはない。むしろ逆だ」
「承知しております」
声は輪郭を持ち、揺れていなかった。アウグストゥスはアイスブルーの瞳を細める。
「迷わぬのだな」
「迷いがないわけではございません」
ロゼッタは端的に答えた。
「ですが、ここへ来ると決めたのは私です。試されることから逃げるつもりはありません」
広間の隅に控えていた廷臣たちの気配がわずかに動く。血筋を盾に守られようとする娘ではないらしいと、その言葉で理解したのだろう。
「よい」
アウグストゥスは短く言った。
「では、逃げずに立て」
甘さのない一言だが、ロゼッタにはその方がありがたかったようだった。最初から身内として迎えられるより、むしろ納得できるのだと、表情の端から読み取れた。
女官が進み出て、用意していた書面を差し出す。
「ロゼッタ様の短期留学日程をお渡しいたします」
その日程表には、初日から空白がほとんどない。礼法、陪席作法、舞踏、帝国法の基礎、歴代皇族の記録、午後には小規模な社交の場の見学まで入っている。宮廷は慣れるまで待たない。その方針が、紙面からでも十分に伝わった。
「明日からではない」
アウグストゥスは言った。
「今夜から始める」
「はい」
「まだ受け容れたわけではない」
「承知しております」
「だが、来たことは見ている」
最後の一言に、ほんの少し別の温度が混じった。身内の情ではない。ここへ立ったという事実を、皇帝が見落とさないという意味だった。
ロゼッタが礼をし、退出のために下がる。扉が閉まる直前まで、アウグストゥスはその背を見ていた。
(あの娘は、誰かの代わりにはならぬだろう)
だからこそ、試す価値がある。
◇ ◇ ◇
広間を出た瞬間、ロゼッタはようやく息をついた。
膝が震えていないことを確かめてから、手の中の日程表へ目を通す。朝から夜まで隙間なく並んだ予定は、歓迎の印ではなく、試練の始まりそのものだった。
(本当に、容赦がないわね)
けれど、それでよかった。
血があるから迎えられるのではなく、血があるからこそ試される。母の言った通りであり、ロゼッタ自身もそうであってほしいと思っていた。ここで甘く扱われれば、どのみち殿下の隣へ立つ資格にはならない。
女官に案内されて部屋へ戻る途中、ロゼッタはそっと髪へ手をやった。青と金のリボンが、結い上げた髪を飾っている。帝国の宮廷へ入る場で、その色を選んだことは、少しばかり無謀だったかもしれないとも思う。
それでも、後悔はなかった。
あの人は「行くな」とは言わず、「戻ってきてほしい」と言った。そして、待つと約束してくれた。そのうえで、自分の色を身につける選択肢まで寄越したのだ。独占欲が透けて見えるくせに、最後の一線だけは越えてこないところまで含めて、どうしようもなく愛おしい。
部屋へ戻ると、机の上にはすでに教材が積まれていた。
歓迎の花も、気遣いの菓子もない。あるのは本と紙と、今夜から始まる課題だけだった。帝国は最初から、ロゼッタを「試される者」として扱っている。
ロゼッタは鏡の前へ戻り、もう一度だけ自分を見る。
薔薇金の髪。蜂蜜色の瞳。青と金のドレス。王国では隠していたものを隠さず、なお王国の色をまとって帝国へ立っている自分は、昨日までとまったく同じではない。
けれど、中身は変わっていなかった。
侍女として身につけてきたもの、支えること、相手の判断を奪わないこと、その要まで捨てる必要はない。ただ、そのままでは届かない場所があるから、届くための立場を取りに来たのだと、鏡の中の自分へ言い聞かせる。
(私は、自分の意志でここへ来た)
そう思うと、先ほどまでの緊張が少しずつ別のものへ変わった。怖さはある。重さもある。だが、それだけで終わるつもりはない。
ロゼッタは机へ向かい、最初の教材へ手を伸ばす。
一月。
短いようで、人を試すには十分な長さだ。
ここでは誰も、第一王子の専属侍女としての自分を見ない。皇帝に連なる者として立てるかどうか、そこが問われる。ならば、選んだ先で勝ち取るのだと、自分で証明したかった。
最初の頁を開き、宮廷礼法の綱要を読み始める。
帝国短期留学の一月は、こうして始まった。




