58 帰る場所を残すために
王宮の書記棟は、朝のうちから人の出入りが絶えなかった。
ニコラス・サルヴィは、渡り廊下を抜けてその一角へ入ると、用意されていた机へ向かい、持参した書類を順に広げた。帝国から届いた返書の写し、マリーニ家から王都へ送られた説明書状、北方の実績に関する報告、そして昨夜のうちに起こしておいた届出文案。どれも単独では足りないが、並べて見せれば筋は通る。
必要なのは、私情を押し隠すことではない。
(私情だけで決まったように見せないことです)
帝国皇族に連なる娘へ、帝国から一月の短期留学が命じられた。
その事実は、王国の内側でも正面から扱わなければならない。曖昧にすれば、かえって噂を呼ぶ。だからこそ、最初から筋道を立てて文書へ落とし込む必要があった。
対面に座る年配の書記官が、文案へ目を通しながら眉を寄せる。
「母方親族への正式な挨拶、帝国礼法および外交儀礼を学ぶための短期留学、そして今後の北方領運営を見据えた教養補強――。表向きの理由としては通りますが、ずいぶん入念にしてますな」
「入念でなければなりません」
ニコラスは淡々と答えた。
「子爵家の娘が勝手に帝国へ向かう話ではないのです。帝国皇族に連なる血が確認され、帝国側から正式な命が届いた。そのうえで王国が把握し、送り出す。そこを曖昧にすれば、王家の管理不行き届きと見なされます」
書記官はもう一度文面へ視線を戻す。
「しかし、帝国礼法と舞踏まで入れますか」
「入れます。母方の親族へ挨拶するだけでは、滞在が一月に及ぶ理由として弱い。学ぶために行くのだと明記した方が自然でしょう」
机の端に置かれた別紙へ指先を移す。そこには、マリーニ家の今後の位置づけを記した下書きがあった。
「それに、マリーニ家は北方国境を支える家です。帝国と接する土地を預かる以上、帝国側の礼法、舞踏、外交儀礼を知っておくことは、ただの飾りではなく実務に繋がります」
書記官が目を上げた。
「今後の北方領運営を見据えた、か」
「はい」
ニコラスは言葉を切らずに続けた。
「マリーニ家の実績は、すでに見過ごせる量を超えています。虹色魔石の献上だけではありません。北方国境沿いの備蓄、輸送、鉱山調査の維持、そのすべてが王国に利益をもたらしている。いずれ家格の見直しが公にもなるのであれば、今のうちに伯爵家相当の教養を補うという体をなすことは、理にかなっています」
書記官はそれ以上、異を唱えなかった。むしろ、納得したように小さく頷く。
「……確かに、この形なら王国の側にも利がありますな」
そこへ、もう一人の文官が加わった。王妃側に近いとされる人物だったが、この場では私見より文面が優先される。
「気になるのは、時期です」
彼は率直に言った。
「第二王子殿下の件で王宮が揺れている今、第一王子殿下付きの侍女が帝国へ向かう。そう聞けば、王都では好き勝手に囁かれましょう」
「囁かせればよろしい」
ニコラスの返答は冷静だった。
「噂は止められません。ですが、文書は残せます。王家が正式に把握し、期限を設けた留学として送り出す。それだけで、私的な駆け引きと解釈される余地は大きく減ります」
「期限は一月で確定ですか」
「帝国からの返書に明記されております」
その言葉で、文官の表情も動いた。期限がある。戻る前提である。そこが大きいのだと、彼も理解したのだろう。
「よろしい」
書記官が文面を閉じた。
「この形で清書に回します。あとは国王陛下と、第一王子殿下の確認ですな」
「承知しております」
ニコラスは立ち上がり、文案を手に取った。
まず国王へ、次に第一王子へ。
順番を違えれば、意味が変わる。制度の場で通すなら、誰がどの立場で認めたのかを、崩さないことが肝要だった。
◇ ◇ ◇
国王であるヴィットーリオ・ディ・ヴァレンティーノは、政務室の机上で文案を読み終えると、しばらく何も言わなかった。
窓から差し込む光が、紙の端を淡く照らしている。脇に控える書記官たちも、今は口を挟まない。問いかけるべきことを考えているのだと、ニコラスにはわかった。
「母方親族への正式な挨拶、か」
やがてヴィットーリオが口を開く。
「それだけではないな」
「はい」
「帝国の側は、娘を見定めるつもりでいる」
断定ではなかった。だが、そこまで読んだうえでの確認に近い。
「そう見て差し支えございません」
ニコラスが答えると、ヴィットーリオは机へ肘を置き、指先を組んだ。
「王国として、送り出す理由は成り立つのだな」
「成り立ちます」
「ならばよい」
それ以上、国王は文句をつけなかった。帝国からの書簡を退けることの方が問題だと理解しているのだろうし、それだけではないと、ニコラスは感じた。
ヴィットーリオの視線が、文案の末尾へ向く。
「マリーニ家の件も、進めているのだな」
「はい。功績に対する正式な評価として」
「……そうだな」
小さく返ってきた声は、否定ではなかった。
「北方の働きは、前々からもっと公に扱われるべきだった」
ニコラスは黙って一礼する。
国王は筆を執り、必要な箇所へ承認を加えた。
「第一王子にも見せよ。最終の確認は、ルチアーノ自身にさせる」
「承知いたしました」
◇ ◇ ◇
離宮へ戻ったときには、陽はすでに傾き始めていた。
執務室の扉を開けると、ルチアーノは机に向かっていた。完全に回復した視力ではない。だが、光と輪郭を拾う視界を得てから、彼の姿勢は以前にも増して張り詰めたものになっている。見えるから楽になったのではない。見えるからこそ、なおさら手放したくないものが増えたのだと、ニコラスは感じた。
「戻りました」
「入れ」
ルチアーノは杖へ触れたまま顔を上げた。
「届出の文案が仕上がりました」
机へ書類を置き、必要な箇所を読み上げる。
母方親族への正式な挨拶。帝国礼法、舞踏、外交儀礼の短期留学。今後の北方領運営を見据えた教養補強。帝国からの正式な命に対し、王国として把握と承認を与える形を整えていた。
最後まで聞き終えたあと、ルチアーノはすぐには返事をしなかった。
「……悪くない」
短く言う。
「私情の印象を抑えていますし、帝国側の面目も潰しません」
ニコラスは頷いた。
「帝国の見定めがあることは伏せつつ、王国として送り出す理由だけを前へ出しました」
「期間は一月」
「はい」
「戻る前提が消えない形だな」
「そのようにしております」
そこでようやく、ルチアーノの肩から少しだけ力が抜けた。
(そこを最初に確認されますか)
ニコラスは表に出さない。だが、その問いが第一に来ること自体、今の殿下をよく表していた。
「もう一つ、進めております」
続けて告げる。
「マリーニ家の家格についてです」
ルチアーノの指先が止まる。
「伯爵位か」
「はい。内々には、ほぼ決まりました」
「理由は」
「虹色魔石を私蔵せず献上した功績、北方国境を継続して支えた実績、そして今後の対帝国関係における重要性です」
ルチアーノは黙って聞いていたが、やがて低く言った。
「ロゼッタのためではなく、家の功として通したのだな」
「もちろんです」
「それでいい」
そこで初めて、彼ははっきりと頷いた。
「彼女を私情で引き上げたように扱われるのは、私も望まない」
その一言に、ニコラスは内心で小さく息をつく。
殿下は感情に寄っている。だが、寄ったまま制度を崩さない。その均衡が、ここへ来てより明確になってきていた。
「文案に異議はございませんか」
「ない」
ルチアーノは言った。
「王子として承認する」
その返答は早かったが、軽くはなかった。
ニコラスが必要箇所を示すと、ルチアーノは輪郭の見える範囲で位置を確かめ、筆を執った。
署名の動きは慎重で、乱れがない。自分の名をここに置く意味を知っているからこそ、無駄な力が入らないのだろう。
書き終えたあと、ルチアーノは筆を置いた。
「これで、彼女は感情ではなく選択として帝国へ向かえる」
誰に聞かせるでもない声音だった。
「はい」
「なら、それでいい」
そう言ったあと、わずかな間があった。
彼の中には別の本音がある。だが、それを文書へ混ぜることはしない。その線引きが、今のルチアーノにはもう自然になりつつあった。
「ニコラス」
「はい」
「彼女が帰る場所を、王国の側で曖昧にするな」
低い声だった。
「侍女としてでも、帝国の縁者としてでもない。ロゼッタ自身が帰ってくる場所として、だ」
ニコラスは頭を下げる。
「承知いたしました」
ルチアーノはそれ以上、何も言わなかった。
けれど、その沈黙の中にある願いは、もう隠しきれていない。
帝国へ向かうのはロゼッタの選択であり、それを支えるのは王国の役目だ。
王子として承認し、一人の男として待つ。その二つを同じ心に収めたまま、ルチアーノは机上の書類へ手を置いていた。
窓の外では、薄い光が庭の端へ移り、離宮の石畳に長い影を落としている。
文案は整った。
家格の件も動き出した。
残るのは、彼女がその道を進み、そして戻ってくることだけだった。
ニコラスは書類を抱え直し、静かに執務室を出た。
廊下へ出た先で、すでに次の手配が待っている。帝国への返答、王宮内への共有、公表の順序、そしてマリーニ家の家格変更に伴う文面の整理。
やるべきことは多い。だが、今はそれでよかった。
離宮の奥に残るのは、送り出す側の沈黙であり、帰りを待つ側の覚悟だった。




