56 戻ってきてほしい
帝国からの返書が届いたのは、ロゼッタが実家へ戻ってから五日後のことだった。
朝のうちに一頭の早馬が門をくぐり、見慣れない封蝋の押された書簡が母の手へ渡される。その様子を廊下の窓から見ていたロゼッタは、使いの者が去ったあとも、しばらくその場から離れられなかった。
(来たのね)
待っていたはずなのに、鼓動だけが先に速くなる。母はその場で封を切らず、まずロゼッタを呼び、それから領内の視察から戻った父にも声をかけた。
居間へ入ると、父は外套を脱いだばかりで、まだ外気の冷たさをまとっている。母は封筒を机へ置いたまま、娘を見た。
「返事が来たわ。今から開けます」
短い知らせだったが、それだけで十分だった。ロゼッタは黙って頷き、両親と向かい合うように椅子へ腰を下ろす。
母が封を切り、文面へ目を落とす。読み進める間、その表情はほとんど変わらない。けれど、最後まで目を通してから紙を伏せた指先にだけ、微かな硬さが宿った。
「兄は、すぐに帝国へ迎え入れるとは書いていないわ」
ロゼッタは自然と背筋を伸ばした。
「一月ですって」
「一月……」
「一月の短期留学を命じています。帝都で学び、振る舞いを見せ、そのうえで相応しいと認められたなら――皇帝に連なる者として、皇女として扱う、と」
その一文の重みは、予想していたよりずっと大きかった。
ただの招待ではない。試される。その先で認められたとき、初めて立場が与えられる。そういう意味なのだと、母の口調からすぐに伝わってきた。
父が腕を組み、低く言う。
「歓迎というより、見極めだな」
「ええ。兄らしい返事よ」
母はそう言ってから、ロゼッタへ視線を戻した。
「でも、拒まなかった。それどころか、一月という期限を設けたうえで、皇女として扱う可能性まで明記している。これは、あなたに最初から価値を見ているからこその条件だわ」
ロゼッタは書簡へ目を落とした。まだ自分の手で触れてもいないのに、その紙が持つ重さだけは、はっきりと伝わってくる。
「王都へも知らせなければなりませんね」
そう口にすると、父が頷いた。
「もちろんだ。黙って行かせるわけにはいかない」
「ええ」
母もすぐに続ける。
「帝国皇族と縁続きであること、その娘へ正式に短期留学の命が届いたこと、この二つは王家へ筋を通して伝える必要があります」
それは、もはやマリーニ家だけの話ではなかった。子爵家の娘が帝国へ行くのではない。帝国皇族の血を引く娘へ、帝国側が正式に手を伸ばしてきたのだ。その扱いを誤れば、王国側の体面にも関わる。
「私の名でも書状を出そう」
父が言った。
「王都へは、家としても事情を明かすべきだ」
「お願いいたします、お父様」
その日のうちに、帝国からの返書の写しと、母の出自を含む説明の書状が王都へ向けて送られた。
そして三日後、今度は王国側から返事が届く。
ニコラスが自ら北方へ赴き、必要な手続きを取り計らうこと。さらに、第一王子ルチアーノも同行すること。
その一文を見た瞬間、ロゼッタは無意識に便箋の端を強く握っていた。
(……来てくださる)
会いたいと思っていた。そのことを、もう否定できなかった。
ルチアーノとニコラスがマリーニ家へ到着したのは、その翌々日の昼前だった。
玄関前には父と母が並び、ロゼッタは少し後ろに控える。馬車が止まり、先に降りたニコラスが一礼し、続いてルチアーノが杖で足元を確かめながら地面へ降り立った。
その姿を目にしただけで、ロゼッタの胸が大きく高鳴る。
父が進み出て、深く頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました、第一王子殿下。辺境の小領地ゆえ行き届かぬところもございましょうが、どうかご容赦ください」
母も礼を添える。
「北の寒い土地まで、よくいらしてくださいました」
ルチアーノは杖を手にしたまま、頭を下げた。
「急な訪問をお許しいただき、感謝する。マリーニ卿、ヴェラ夫人」
ニコラスが折り目正しく続ける。
「本日は、帝国からの書簡と、今後についてご相談に参りました」
「承知しております。どうぞ中へ」
応接間へ通されると、暖炉の火が強めに焚かれていた。父が上座を勧め、ルチアーノはそこへ案内される。ロゼッタは母の隣に座り、ニコラスは父の向かいへ位置を取った。
茶が運ばれ、使用人たちが下がる。扉が閉じると、父が口を開いた。
「まずは、こちらからご報告を。書簡には、一月の短期留学を命ずるとありました。その間に帝都で見定め、相応しいと判断したなら、皇帝に連なる者として、皇女として扱う用意がある、と」
ルチアーノの指先が杖の柄へ触れる。
「皇女として、か」
「はい」
父は頷いた。
「娘にとっては過ぎた重さですが、こちらで軽く扱える話でもありません」
そこでニコラスが、実務の話を引き継ぐように口を開いた。
「王国側への届出は、私が進めます。マリーニ子爵夫人の出自と帝国皇族との縁続きが確認されたこと、そして、その娘ロゼッタ嬢に対し、帝国から一月の短期留学命令が正式に届いたこと。この二点を、王家へ文書で提出いたします」
父が小さく息をつく。
「それなら、子爵家の独断には見えませんな」
「ええ。帝国側からの正式な要請を、王国側が把握したうえで送り出す形にいたします。期間が一月と明確なのも助かります。その間に、こちらも体裁を崩さずに済みます」
ロゼッタはそのやり取りを聞きながら、ようやく自分が本当に帝国へ向かうのだと実感した。夢ではなく、手続きと書類と立場を伴う現実として。
そのとき、母が少し声音を改めた。
「もうひとつ、お礼と確認を」
場の空気が、そこで少しだけ変わる。母はルチアーノをまっすぐ見た。
「第一王子殿下。娘を救ってくださって、ありがとうございました。ただ、王子殿下は治癒魔術の使い手ではないと伺っております」
ロゼッタは、さらわれたあとの痛みと冷えた石床、その中で自分を包み込んだ光を思い出した。今考えても、あれがただの治癒魔術ではないことは明らかだった。
ニコラスが、少し声を低くして応じる。
「あれは、ヴァレンティア王家に伝わる固有魔法です」
ロゼッタの指先が止まる。
「国が成り立つとき、その祖となった王族には、伴侶のため、そして国の繁栄のために、固有の力が宿ると伝えられております。ヴァレンティア王家に継がれてきたのは、守護の力です」
父も母も黙って耳を傾ける。
ニコラスはひとつずつ、言葉を置いていった。
「伴侶と認めた相手にのみ応じる守護。守りますが、拘束はしない。癒やしますが、従属させることもない。そして何より、相手の判断を奪わないことを前提として発現する魔法です」
ロゼッタは息を詰めた。
「伴侶と認めた相手に……」
「はい」
その意味を、もう誤魔化せない。
あの光は、ルチアーノが自分を相手として選んだから応じたのだ。しかも、その力は自分を縛らない。守っても、こちらの意思を奪わない。
ルチアーノが端的に言った。
「命令ではなく、選択だ」
それだけだった。だが、その短さがかえって深く刺さる。
「私は王子だから、あの力をあなたに向けたわけではない。あなたを相手として選んだから、応じた」
涙が零れそうになるのを、ロゼッタは瞬きでこらえた。
救い出されたときの口づけも、手首の痛みを和らげたあの光も、そのすべてが今になって別の重みを帯びて心に迫ってくる。
母が、その沈黙を受け止めるように言う。
「帝国にも、祖に由来する力や品の伝承はあります。選ばれた者だけが触れられるものがあるという話は、皇族の中では珍しくありません」
ロゼッタは思わず母を見た。
「だからこそ、兄があなたを見れば、ただの姪としては扱わないでしょう。血だけでなく、何に応じ、何に応じないかまで見ようとするはずよ」
その一言で、帝国側の見定めがまた別の意味を持った。血筋の確認だけではない。在り方まで見られるのだ。
父が慎重に言う。
「なら、この留学はただ学ぶだけでは済まないのだな」
「ええ」
母が頷いた。
「だからこそ、行くかどうかは最後までロゼッタが決めるべきだわ」
その一言で、場が娘へ委ねられた。
ロゼッタは目を伏せ、膝の上の手を見つめる。
殿下に守ってもらった。助けてもらった。そして、選んでもらった。けれど、それだけでは足りない。このままでは、ただ受け取るばかりになる。
(それは嫌だ)
侍女のまま、情に甘えていたくはない。守られるだけの立場にもなりたくない。選ばれたことへ応えるのなら、自分も同じだけの意志で、選び返さなければならなかった。
「……私は」
気持ちを固めて顔を上げる。
「対等に選び返したいです」
誰も口を挟まない。だからこそ、次の一文もまっすぐ出せた。
「侍女のまま情に甘えるのではなくて、殿下に守っていただくだけの立場ではなくて。殿下の隣に立つに足る人間として、戻ってきたいのです」
そして、はっきりと言い切った。
「帝国へ行って、私を認めていただきます」
母はアイスブルーの瞳を細める。父は黙って頷き、ニコラスは一歩も動かず、ただ聞いている。ルチアーノだけが、まっすぐロゼッタを向いていた。
「一月の短期留学を終え、その先に皇女位があるのなら――それを得て戻ります」
その宣言のあと、部屋の中にはしばらく言葉がなかった。暖炉の火が小さくはぜるのが、やけに遠く聞こえる。
最初に口を開いたのは、父だった。
「よく言った」
短いが、揺るぎない声だった。母も頷く。
「それでいいわ」
ニコラスは手にしている書類に視線を落とす。
「帝国滞在中、王都では私が調整を進めます。留学の手続きだけではなく、虹色魔石の献上と北方での働きについても、曖昧なままにはいたしません」
ロゼッタは唇を引き結ぶ。その意味は、説明されなくてもわかった。
子爵家の功績として埋もれさせず、正当に表へ出すということだ。
そして最後に、ルチアーノがロゼッタを呼んだ。
「ロゼッタ」
「はい」
「私は、あなたに選ばれたい」
その願いは、王子としての命令ではなく、一人の人間として差し出されたものだった。
ロゼッタは姿勢を正し、ルチアーノをまっすぐ見つめる。
「もったいないお言葉です」
そう言ってから、深く頭を下げるのではなく、きちんと彼の方を向いたまま続けた。
「どうか、待っていてくださいますか」
声はもう揺れていなかった。
「必ず、選び返せるところまで行って戻ります」
ルチアーノはしばらく何も言わず、そのあとようやく一言だけ返した。
「待っている」
その短い返事の中に、止めないことも、信じることも、戻る場所を残すことも、すべて含まれているのがわかった。
窓の外では、柔らかな日差しが庭の霜を溶かし始めている。
帝国へ向かう道は遠い。試されるだろうし、簡単にはいかないはずだ。それでも今は、怖さだけではなかった。
戻ってくる前提で送り出されることが、こんなにも人を強くするのだと、ロゼッタは初めて知った。




