55 殿下の隣を選ぶために
北方へ入ると、空気が変わった。
実家の門をくぐったとき、庭に残っていた霜が朝の光を反射し、井戸の傍では汲み上げた桶を石畳へ置く高い音が響いた。幼い頃から見慣れ、聞き慣れてきた景色のはずなのに、今日は懐かしさより先に心が落ち着かなかった。
――あなたを、ちゃんと見たい。
研究室で告げられたあの一言が、王都を発ってからも耳に残っている。思い返すたび、頬に熱が集まった。
人前へ出るとき、母はいつも髪を染めるよう言った。本来の色がローズゴールドであることも、その色が鏡に映ると、染めたブラウンより自分らしく見えることも、ロゼッタは知っている。けれど、なぜそうしなければならないのか、その理由だけは一度も聞かなかった。
けれど今は違う。
(知らないままでは、もう前に進めない)
扉が開き、使用人が頭を下げる。居間の暖炉には火が入り、窓辺にはすでに母がいた。振り向いた母の姿はいつもと変わらない。なのに今日は、その場所で何かを待っていたように見えた。
「おかえりなさい、ロゼッタ。予定より早かったわね」
「ただいま戻りました、お母様」
勧められた椅子へ腰を下ろすと、茶器が運ばれてきた。使用人が退がるのを待ってから、母も向かいに座る。白磁のカップへ手を伸ばす仕草は穏やかで、その落ち着きがかえってこちらの緊張を際立たせた。
「それで、今日は何を聞きに来たの」
声は柔らかい。だが、曖昧な言い方で逃がしてはくれない響きがあった。やはり隠せていないのだと悟り、ロゼッタは膝の上で指を重ねる。
「昔から人前へ出る前に、この髪を染めるように言われてきました。私は、それが必要なことなのだと思って従ってきましたけれど……先日、殿下に『あなたを、ちゃんと見たい』と仰っていただいたのです」
母は何も挟まない。ただ、その先を待っている。
「そのとき、私も……あの方に、本来の私を見ていただきたいと思いました。ですから、お母様。どうして私は髪を染めているのか教えてください」
暖炉の薪が小さく弾けた。母はすぐには答えず、しばらく娘の顔を見つめていたが、やがて息をついた。
「殿下のことを好きになったのね」
問いというより、確かめる口ぶりだった。見透かされた気恥ずかしさはあったが、否定する気にはなれない。ロゼッタは目を伏せ、胸の内をそのまま口にした。
「はい。お慕いしています」
母は驚かなかった。からかいもしない。カップの縁へ指を添えたまま、その想いを受け止めてから話し始めた。
「それならば、今のうちに話した方がよさそうね。その色のままでいれば、いずれ誰かが気づくわ。ローズゴールドは、アルシア大帝国の皇族直系にしか現れない色だから」
ロゼッタは息を止めた。意味はわかる。けれど、すぐにはひとつに繋がらない。
母は急がせなかった。
「私は、あなたの父に嫁ぐ前は、ヴェロニカ・ディ・アルシアだったわ。現皇帝アウグストゥスは、私の兄です」
ロゼッタは思わず自分の髪へ触れた。見慣れていたはずの色が、急に遠い帝国の名と結びつき、昨日までとはまるで違う意味を持って迫ってくる。
「……お母様が、帝国の皇族」
「ええ。そしてあなたも、その血を引いているわ」
母の口調は淡々としていたが、その重みは隠せない。
「それなら、どうして今まで何も……」
「今のあなたに背負わせるべきことではなかったから。それに、帝国が知ればあなたを放っておかないからよ」
母は迷わず言った。
「今、ローズゴールドの髪を持つのは、兄と、私と、あなたの三人だけです。兄にはまだ子どもがいません。だから、もしあなたが帝国へ行けば、ただの姪として迎えられるだけでは済まないでしょう。あの人はきっと、あなたを手放さない。皇帝に連なる者として、帝国の中心へ置こうとするはずよ」
皇帝の姪というだけでも十分重いのに、その先まで見据えられている立場だと告げられれば、平然とはしていられない。ロゼッタは膝の上の手に力が入るのを感じた。
母は視線を窓の外へ移した。陽の光を受けた庭木の枝が、床へ細い影を落としている。
「帝国では、血を守ることが何より大切にされてきたわ。皇族や高位貴族同士で縁を結び、同じような家同士で繋がり続けることを、誰も不思議だとは思わなかったの」
そこで母はカップに口をつけた。
「けれど私は、幼い頃から見ていたわ。そうした家ほど子どもを授かりにくく、生まれても身体の弱い子が多いことを。最初は偶然だと思っていたの。でも、あまりに重なりすぎていた。調べて、見比べて、考えて……血を守るためだけの結びつきには、目に見えない歪みが積もっていくのだと、私はそう結論づけたの」
それは、誰かから教えられた知識を並べる調子ではなかった。自分で見て、自分で考え、そこへ辿り着いた人の声音だった。
「兄は身体が強い方ではなかった。私は健康だったから、いずれ帝国の高位貴族へ嫁ぐのだろうと、早いうちからわかっていたわ。血のため、国のため、そう言われれば従うべき立場にあることも理解していた」
母の顔に大きな変化はない。けれど、その横顔には、長い間押し込めてきた反発があった。
「だけど私は、血のためだけに不幸になることが目に見えている結婚はしたくないと思ったの。国のために生きる覚悟がなかったわけではないわ。ただ、自分の人生まで、その歪みの中へ差し出すことには耐えられなかった」
そこで母の視線がロゼッタへ戻る。
「だから王国へ来たの。国境であなたのお父様と出会って。私は平民だと偽っていたけれど、あの人は最初から、本来の身分に気づいていた。それでも受け容れてくれたのよ」
(……お父様らしい)
押しつけず、見ていないわけでもない。相手の選択を、その人のものとして残すやり方は、確かに父にもある。
「私は駆け落ち同然で王国へ来たから、兄には一度も居場所を知らせていないの」
母はカップを置き、指先を組んだ。
「兄も追わなかったわ。私がそれだけの思いで去ったのなら、無理に連れ戻しても意味がないと考えたのでしょう。けれど今は事情が違う。あなたの未来のためなら、私は兄に知らせる覚悟があります」
「……お母様」
「ただし、その先は簡単ではないわ。あなたが帝国へ渡れば、兄は試すでしょう。血を持つだけでなく、皇帝に連なる者として相応しいかどうかを」
母はそこで声を和らげた。
「それでも私は、あなたなら跳ね返して帰ってくると思っているの」
その信頼が、ひどく重く、けれど支えにもなった。
ロゼッタは膝の上の手を見下ろした。
ただ守られていたいわけではない。ただ侍女のままでいたいわけでもない。かといって、血筋が道を開いてくれるからそこへ立つのも違う。もしルチアーノの隣へ行くのなら、それは誰かに与えられた場所ではなく、自分で選び取った場所でなくてはならない。
「……私は」
息を吸い、逃げずに伝える。
「急に皇族だと知らされたからといって、その血だけで殿下の隣へ行きたいわけではありません。本来の自分を見ていただきたいと思いました。でも、それは何かを与えられたいからではなくて……私自身の意志で、あの方の隣を選びたいからです」
母は何も言わずに娘を見つめる。
「私は、あの方をお慕いしています。侍女として役に立ちたい、それだけではもう足りません。殿下の傍にいたい。殿下の隣に立てる人間になりたい。そう思っています」
最後まで口にしたとき、抱え込んでいた想いが、ようやく輪郭を持った気がした。
母はしばらく黙っていたが、やがて深く頷いた。
「なら、殿下に選ばれるためではなく、自分で隣を選ぶために行きなさい。兄から何かを与えられるのを待つのではなく、自分で取りに行くの。帝国へ渡って、あちらの学も制度も作法も受け止めたうえで、兄に、皇帝に連なる者だと認めさせる。その先でようやく、あなたはあなた自身の名で立てるわ」
帝国へ行く。
口にすればそれだけなのに、その先にあるものは重い。試されるだろうし、囲い込まれようとするかもしれない。それでも怖さより先に、心の底で定まっていくものがあった。
見えないままでも、自らの意志で、殿下は自分を選ぼうとしてくれた。だからこそ自分もまた、自分の意志でそこへ向かわなければならない。
「行きます」
答える声は、自分でも意外なほど落ち着いていた。
「たとえ試されても逃げません。殿下の隣は、誰かに決めてもらうものではなくて、自分で選びたい場所です」
母はその返事に、満足したような目をした。そして立ち上がると、暖炉脇の抽斗を開け、奥にしまわれていた小箱を取り出す。蓋を開くと、中には見覚えのない印章がひとつ収められていた。金とも薔薇色ともつかない鈍い光を帯びたそれは、長い年月、誰の目にも触れないまま眠っていたのだろう。
「私は今日、初めて兄に文を出します」
母は印章を手のひらへ載せたまま言った。
「娘を帝国へ送る、と」
その一言で、これまで閉ざされていた扉が音もなく開く気配がした。母にとってもそれが大きな決断であることは、その口ぶりから伝わってくる。
ロゼッタは自分の髪へ触れた。指先の下にあるのは、昔から知っていたはずの色だ。けれど今は、ただ懐かしいだけの色ではない。遠い帝国へ繋がる血の証であり、これからの自分を決めるのはその色だけではないのだと、はっきりわかった。
母が机へ便箋を広げ、筆を執るのを見ながら、ロゼッタはもうひとつ、やらなければならないことを思い出した。
「お母様」
「なあに」
「離宮へも手紙を出したいのです」
母はすぐに頷く。
「もちろんよ」
ロゼッタは新しい便箋を取り寄せてもらい、机の端へ座った。今、書けることは限られている。帝国から返事が来る前に、すべてを明かすわけにはいかなかった。
それでも、何も告げずに待たせることだけはしたくない。
実家で少し時間が必要であること。気持ちを整理してから戻るつもりでいること。離宮の皆へ迷惑をかける詫び。
書き終えたあとも、ロゼッタの手には筆が留まっていた。もっと書きたいことはある。けれど、今はこれ以上書けない。
(待っていてください、と書きたいのに)
その一文だけは、どうしても便箋へ落とせなかった。
封を閉じ、使用人へ託す。手紙はその日のうちに王都へ向けて出された。
母の文が帝国へ届けば、返ってくるのは歓迎よりも先に、試すための条件だろう。離宮へ向けた自分の便りも、受け取る人の気持ちを揺らすかもしれない。
それでも、もう目を逸らすわけにはいかなかった。
殿下の隣へ至る道を、自分で選び取りたいと決めたのは、自分自身なのだから。
こうして、帝国からの返書を待つ日々が始まった。




