54 染め粉の意味
翌朝、控室へ入ったマリアの目に、机の上の小さな布包みがすぐに入った。
すでに待っていたステラがそれを手に取り、布をほどく。中から現れたのは、昨夜執務室で話題になった小瓶だった。
「昨日の話、覚えているわね」
そう言いながら瓶を差し出す。マリアは両手でそれを受け取った。
「はい。王都の染料商に当たってみたいと思います」
ステラはマリアの顔を確かめるように見つめ、簡潔に条件を並べる。
「危ない場所には行かない」
「行きません」
「表通りの店だけ」
「はい」
「ひとりで行くの?」
マリアは一瞬だけ言葉を選び、それから答える。
「……ジャミル様が護衛に付いてくださるそうです」
それを聞くと、ステラは小さく頷いた。
「それなら構わないわ」
瓶を布で包み直し、マリアへ手渡す。
「ロゼッタの物だから、扱いは丁寧に」
「はい」
マリアは頭を下げ、小瓶を胸元に抱えて控室を出た。
◇ ◇ ◇
離宮の門を出ると、石壁の陰に立つ黒髪の男が目に入った。
背は高く、身体つきは無駄なく引き締まっている。そこに佇んでいるだけで人の流れが自然と遠回りし、周囲にわずかな空間が生まれるように感じられた。琥珀色の瞳がこちらへ向けられると、その鋭さは刃物のように澄んで見える。
ジャミルはいつも通り、異彩を放っていた。
マリアが近づくと、彼は短く言う。
「行くぞ」
「はい」
二人は並んで歩き出す。
王都へ向かう道を進みながら、マリアは布包みの上から小瓶を軽く押さえた。
(匂いが残らない染め粉)
王都の染め粉ではまず聞かない特徴だった。
王都の品は、ほとんどが香料を混ぜて薬剤の匂いを隠している。香料を使わない場合でも、薬の匂いが多少は残る。それがまったく感じられないということは、最初から作り方が違う可能性が高い。
市場に足を踏み入れると、離宮とはまるで違う気配が広がった。布の匂いと香料、焼き菓子の甘い匂いが混ざり、荷車の軋む音と人の呼び声が絶え間なく重なっている。
マリアは最初に染料商の店へ向かった。
「すみません」
店主が顔を上げる。
「これ、見覚えありますか」
瓶を受け取った店主は粉を覗き込み、すぐに首を横に振った。
「王都のじゃないな」
「匂いが残らなくて」
マリアがそう言うと、店主は小さく笑う。
「それが妙なんだ。王都の染め粉は香料を混ぜる。薬剤の匂いを隠すためにな」
マリアは頷いた。その違和感が、今は確かな手がかりになる。
「粒の細かさも揃っていて……」
店主は瓶を返しながら言い足した。
「粉を揃えるには手間がかかる。市中に流す品じゃないね」
マリアは礼を言って店を出る。
そのとき店主の視線が微かに動いた。マリアの後ろに立つ男を見て、言葉を続けるのをやめたらしい。
ジャミルは何もしていない。ただ黙って立っているだけだった。
次に香料商の店を訪ねる。
「匂いが残らない染め粉?」
店主は瓶を見ると首を振った。
「普通は作らない。匂いを消したら色が乗りにくくなる」
さらに薬材商を訪ねると、店主は粉を指先で軽く触れてから言った。
「定着剤が違うな。王国の材料じゃ、この匂いの消し方は難しい」
マリアは小瓶を布に戻す。
(王国の流通ではない)
三軒続けて同じ方向の答えが返ってくると、推測が少しずつ形を持ち始めた。
通りを歩きながら、マリアは考える。
(匂いがないのは偶然じゃない。粒が一定。定着剤が違う)
そこまでわかったなら、もう一歩だけ踏み込む価値がある。
市場の奥に、古い染料店があることをマリアは知っていた。商家の娘として育った経験がなければ、通り過ぎてしまうような場所だった。
色あせた看板の下で、年配の店主が椅子に腰掛けている。
「これを見ていただけますか」
瓶を差し出すと、老人は粉を光に透かしながら長く見つめた。
やがて低い声が落ちる。
「王国の染め粉じゃない」
マリアは落ち着いた声で尋ねる。
「では?」
老人は瓶を机へ置いた。
「昔、帝国の使者が似た粉を持っていた」
マリアの指先が止まる。
(帝国――北のアルシア大帝国)
それでも口には出さない。
「髪に使う粉だと言っていた」
それ以上は語られない。マリアは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
少女の背中を見ながら、ジャミルは小さく溜息をついた。
栗色の髪が肩で揺れている。背は高くなく、身体つきも細い。市場に紛れていれば、ごく普通の娘にしか見えない。
しかし店に入ると空気が変わる。
最初は匂いの話から入り、粉の粒子へ話を移し、最後に定着の強さを聞く。相手が気づかないうちに必要な情報だけを引き出していた。
マリア本人には自覚がない。
(危なっかしい娘だ)
無謀ではない。順序も理解している。だからこそ、護衛がいなければ危ない。
ジャミルは歩く位置を少し変え、通りの外側へ立った。それが今の役目だった。
◇ ◇ ◇
夜、離宮の執務室。
机を囲むように、ルチアーノ、ニコラス、ステラ、ジャミルが揃っていた。その中央へ、マリアが小瓶を置いた。
マリアは順序立てて報告する。
「王都の染料商、香料商、薬材商すべてで、この粉は王国の流通品ではないと言われました。匂いが残らないことと定着剤の違いが共通して指摘されています」
最後に結論を言った。
「表通りの奥にある古い染料商が、アルシア大帝国の使者が持っていた粉に似ていると言っていました」
ニコラスが瓶を手に取る。
濃紺の髪の片側に編み込まれた三つ編みが肩に落ち、横顔にわずかに尖った耳の輪郭が浮かんだ。人間より長い時間を生きる種族の血が、そこに現れている。
粉を光に透かし、瓶口の粒子を指先で確かめる。
「マリア嬢の調査をもとにすると、王国の染め粉では説明がつきません」
ニコラスは瓶を机へ戻した。
紫がかった瞳が思案するように色を深める。
「まず、ロゼッタ嬢に施された教育です」
言葉を選びながら続ける。
「礼儀より判断を優先する教育方針。そして帝国式舞踏」
ニコラスは口元に手を添えて、考えをまとめるように一度目を閉じた。
「少なくとも、帝国皇族に近い教育が施されています。それを意図して行った人物がいるということです」
マリアが小さく息を呑む。ニコラスは理知的な声音を崩さない。
「さらに魔石に対する知識。マリーニ子爵領で掘り出されたばかりの虹色魔石を、迷いなく私へ届けさせた判断」
ルチアーノの傍に置かれた虹色魔石が、灯りを受けて内側から淡く色を揺らしていた。
「魔石の価値を理解していなければ、あの判断はできません」
室内の空気が張り詰める。
ニコラスは結論を急がず、事実を積み重ねていく。
「帝国式の教育。帝国式舞踏。魔石に対する深い知識」
そこで目を開き、小瓶へ視線を移した。
「そして、この染め粉」
ニコラスはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「帝国の皇族直系は、ローズゴールドの髪を持つ」
マリアが小瓶を見つめた。
「その色を隠すための染料だとすれば、すべてが説明できます」
ルチアーノがはっきりと言う。
「帝国でも構わない」
一呼吸置いて、杖を強く握る。
「私の選択は変わらない」
ニコラスは視線を伏せ、遠い記憶を辿るように息をついた。
「記録では平民出身とありましたが、ヴェラ・マリーニ子爵夫人は……」
そして淀みなく続ける。
「アルシア大帝国の皇妹、ヴェロニカ・ディ・アルシア殿下でしたか」
その名が告げられたとき、染め粉の意味が、ようやく形を持った。




