53 頭を下げる王子
執務室に、ニコラスとジャミルが入ってきた。
ルチアーノは椅子に腰を下ろし、杖を傍に立てかけている。蛇の意匠の柄を指先で確かめると、いつもの位置に落ち着くはずなのに、今日はそこへ熱が混じった。気温のせいではないことは自分でもわかる。
ジャミルは前置きをせず、北方へ向かった際の報告を口にした。節度を守るが、飾らない口調は、耳に入る情報だけを残す。
「北方の流通経路を洗い直しました。表向きは普通の仕入れに見えますが、金の動きに妙な癖があります。ひとり、名前が浮かびました。たぶん本人じゃない。名義を貸してるだけです」
簡潔に述べるだけで、背後に誰かがいることが伝わる。前へ出ず、手を汚さず、動かしている者がいる。
「その名義で、闇魔法の素材が王都へ入っています。量は多くない。でも止まってません。背後を洗います。……細い流れが残るのが、一番厄介です」
最後の言い回しだけが、ジャミルの本音に近かった。剣士は大きな火種よりも、消えない小さな火を嫌う。
ルチアーノは杖の柄を指でなぞりながら問い返した。声が乱れれば、耳が拾う情報の精度が落ちる。見えない世界では、そこが致命傷になると身に刻まれていた。
「痕跡は新しいのか」
「はい。最近の動きです。虹色魔石の件とは別になります」
切り分けは明確だった。
「ロゼッタの帰省と結びつくものは」
問いながら、ルチアーノは自分の意図を確かめる。闇魔法をロゼッタへ繋げたいわけではない。ただ、危うさの範囲を把握しておきたかった。
ジャミルは迷いなく答えた。
「今のところ、繋がりは出ていません。少なくとも同じ筋ではないはずです」
ルチアーノは頷いた。
(闇魔法は別の問題だ)
ここで混ぜれば、判断が鈍る。焦りが余計なものを結びつけてしまう。守りたいものを守れなくなるのは、いつもこういう瞬間だとわかっている。
「引き続き追え。報告は私へ」
「承知しました」
それで闇魔法の件は区切る。ジャミルは必要な情報を伝え終え、口を閉じた。
次に動いたのはニコラスだった。机上の封筒へ手を伸ばし、封を切る音が響く。話題を切り替える所作に澱みがない。
「別件でございます。マリーニ子爵家より、ロゼッタ嬢から手紙が届いております」
紙が開かれ、内容が読み上げられる。
実家で少し時間が必要であること。心を整理してから戻るつもりであること。離宮の皆に迷惑をかけることへの詫び。文面は丁寧で、行間に過剰な感情を残していない。言い換えれば、丁寧な分だけ遠い。
「以上です」
今度は、返事がすぐに出なかった。
杖を握る手のひらに力が入る。柄の凹凸が指先へ食い込み、痛みがあるのに、それで自分を止められない。
(戻る、と書かなかった)
戻るつもり。断言ではない。
王子の命令であれば、ロゼッタは従う。彼女は誠実で、責務から逃げない。だから命じれば戻る。戻って、いつも通りの声で名乗り、いつも通り半歩先を歩き、いつも通り必要な確認をしてくれる。
しかし、その形で戻ってきたとしても、それは彼女の選択ではない。
(それでは足りない)
欲しいのは、行動ではない。彼女の判断だ。
彼女自身が、ここへ戻ると決めることだ。
(選ばれたい)
口にすれば幼い願いに思われるかもしれない。だが、この願いを隠したまま、王としても恋としても前へ進めない。
ルチアーノは息を整え、ニコラスの位置を確かめた。ここで自分が崩れれば、場が揺れる。その揺れが彼女へ届くのは望まない。
「ニコラス」
「はい」
「ステラとマリアを、ここへ」
誰に聞かれるかわからない場所で、私情を公に晒すのは避ける。言い訳ではなく、ロゼッタのためでもあった。ニコラスは短く応じ、すぐに手配をした。
◇ ◇ ◇
やがて二人の足音が廊下に重なり、控えめなノックが響く。
「入れ」
ステラはいつも通り前へ出ず、壁際へ位置を取る。マリアは緊張を隠しきれず、呼吸が少しだけ早い。けれど、今夜は逃げないと決めていることが伝わる。
ルチアーノは立ち上がった。杖先で机と椅子の位置を確かめ、数歩分の距離を取る。立った姿勢の方が声が崩れにくい。
「命じるために呼んだのではない」
空気が引き締まる。ステラとマリアが黙って受け止める。ニコラスは口を挟まず、ジャミルは入口側で気配を薄くし、背中で通路を塞いでいた。万が一、扉へ不用意に近づく者がいても、すぐに遮れる立ち位置だ。
「……頼みがある」
言い回しを選ぶ時間を取る。王子としての命令に変えれば、その瞬間に、欲しいものから遠ざかる。
「私の恋を応援してほしい」
宣言のあと、誰もすぐに息を継がなかった。
「ロゼッタは戻るつもりだと言った。だが、待つだけでは足りないと考えた」
杖を脇へ寄せ、真摯に思いを連ねる。丁寧に、誤解の余地を残さないように。
「命じれば戻る。それはわかっている。だが、それでは彼女の心は手に入らない。私は従わせたいのではなく、心を通わせたい」
一度、息を吸う。ここまでなら理屈として語れる。けれど理屈だけでは届かないと、もう自分でわかっている。
「私の隣を、彼女自身の意志で選んでほしい。そのために迎えに行きたい」
声が喉で止まりかけるが、それでも続けた。言い切らなければ、また自分を守るための形に戻ってしまう。
「……失いたくない」
小さく付け足す。
それは王子としてではなく、十六歳の少年の本音だった。誘拐の日に抱きしめた温度を思い出したとき、彼女を失う可能性を知った。それを思うと平然とはしていられない。
「一人ではなく、皆で」
言い終えて、ルチアーノは一度だけ呼吸を整えた。命じれば、すべては早い。だが、それでは意味がない。ゆっくりと頭を下げる。
王子ではない。
一人の人間のルチアーノとして。
最初に声を発したのはニコラスだった。
「殿下……」
落ち着いた声音で、揺れはない。ただ、今夜はその落ち着きの中に、別の温度が混じっている。
「お母上は、選ばれた方でした」
一拍、間を置く。
「ですが、選ばれただけではございません」
ルチアーノが顔を上げる。ニコラスは続けた。
「ソフィア様は、ご自身の意志で選び、判断し続けた方でございます。王妃である前に、一人の人間として、王の隣に立つことを選び続けた」
ニコラスの語りが、過去の空気を連れてくる。
母は、地位に守られて立っていた人ではない。
隣に立つことを続けた人だった。
「殿下は、選ぶ側に立たれた」
責める響きはなく、確認でもない。見届ける声だった。託された役目を、揺らがせず受け取る声だった。
「命令でなく、願いとして差し出されたのであれば、それは王としてではなく、ルチアーノ様としての選択でございましょう」
その呼び方は、滅多に使わない。今夜は一度だけ、その一度に意味を込めている。
「応援いたします」
短い一言だった。だが、その短さが、逃げ道のない支えになる。
ルチアーノの喉が鳴った。
(母上は……)
選ばれたのではない。選び、判断を続けた。ならば、自分も。
「ありがとう、ニコラス」
沈黙ののち、ステラが口を開いた。前へ出ないまま、必要な現実だけを置く。
「最初から、そのつもりです。ロゼッタが戻ったとき、離宮が揺らいでいては困ります。殿下が揺れるのも、同じです」
叱る言い方ではなく、支える言い方だった。
マリアが続く。声が少しだけ上擦るが、口調はまっすぐだった。
「ロゼッタさん、戻ります。でも、戻る理由は増やせます。私、調べます。ロゼッタさんのこと、全部。噂じゃなくて、確かな形にします」
その返答に、入口付近からジャミルの声が重なる。
「マリア、ひとりで動くな。俺も行く」
マリアが目を見開く。
「ジャミル様」
「危ない橋は渡らせない。任務として」
「……ありがとうございます」
「ロゼッタ嬢のためだ」
任務という建前で距離を保つ。だが、立ち位置がすでに答えになっていた。
そのとき、ステラが慎重な声で言った。
「……殿下。ひとつ、思い出しました」
ルチアーノが顔を向ける。
「ロゼッタが離宮を出る前に、小さな瓶を預かっております。髪に使う物とだけ聞きました。何かあったときのためにと」
ステラは懐から布に包んだ小瓶を取り出し、机へそっと置いた。中身の正体は知らない。それでも預かった物の重さだけは理解している手つきだった。
マリアの呼吸が変わった。
「……見せてください」
声の調子が先ほどまでと違う。素直なまま、しかし集中している。
ステラが小瓶を差し出すと、マリアは受け取ってからすぐには蓋を開けなかった。鼻を近づけ、指先で瓶の表面を確かめ、最後に慎重に蓋を緩める。中の粉の気配を逃さないように、ほんの少しだけ指に取る。
「これ……」
一拍置いて、マリアは言った。
「染め粉に見えます」
ルチアーノの指が、杖の柄をきつく握る。
「珍しいのか」
「とても珍しいです。王都でも滅多に見ませんし、匂いが……残らない」
マリアは粉を戻し、蓋を閉める。扱いが丁寧なのは、品物の格を感じ取っているからだ。
「普通の染め粉なら、香りで誤魔化したり、薬剤の癖が残ったりします。これは、それがない。調合法が違います」
ステラが静かに言う。
「ロゼッタは、詳しい説明はしませんでした。ただ、念のためと」
マリアが頷いた。
「念のためにしては質が良すぎます」
言ってから、慌てて口を閉じる。それでも言うと決めた声音だった。
「すみません。でも……調べたいです。どこで手に入る品なのか、誰が作るのか、王都で扱える商家があるのか。私なら、当たりをつけられます」
ルチアーノは一度だけ息を吸い、吐いた。
「任せる。ロゼッタのことを、憶測で弄ぶのは嫌だ。確かな形にしてくれ」
マリアが背筋を伸ばした。
「はい。必ず」
ジャミルが低く言う。
「外へ出るなら俺が付く」
マリアが反射的に返事をしそうになり、飲み込んで頷く。
ルチアーノは杖を取り直す。冷たさが指先へ戻り、今夜の決意を支える。
「ロゼッタを迎えに行く」
そこだけは、断定した。




