52 見たいという願い
夜更けの離宮は人気が途絶え、医務棟の奥にある研究室だけが控えめな灯りを保っていた。
扉を押し開けた瞬間、ロゼッタの目に飛び込んできたのは、床一面に描かれた精緻な魔法陣である。幾重にも重なる円と、それを縫うように伸びる細い線。中央だけが空白になり、そこに何かを迎え入れるための舞台のように見えた。
(あそこへ、殿下を)
机の上の虹色魔石は、油灯を受けて内部の層を緩やかに変えていた。赤とも紫とも断言できない色が重なり合い、石の奥で微かな波紋を描いている。
ロゼッタはルチアーノの傍へ歩み寄った。
「殿下、こちらです」
声をかけ、彼の手に触れ、半歩先を歩く。杖の先が床を確かめる振動が伝わるたび、足の位置を調整しながら、ロゼッタは中央へ導いた。
「……ここか」
「はい、中央です」
ルチアーノが陣の中心に立った瞬間、床の線がほのかに明るさを帯びる。淡い光が水面のさざなみのように広がった。
ロゼッタは壁際へ退き、ニコラスが前へ進み出る。
「殿下、石を」
差し出された手のひらに、虹色魔石が置かれる。
その瞬間、魔法陣全体の輝きが増した。
ニコラスの詠唱が始まる。
低く抑えた声が空間に満ち、床に描かれた線が順に浮かび上がる。虹色の光が円周を巡り、やがてルチアーノの足元から立ち上り、彼の身体を取り囲むように広がっていった。
鋭い閃光ではない。
それでも、光は途切れずに流れている。乱れもなく、迷いもない。
ロゼッタの目には、その変化がはっきりと映っていた。魔石から生まれた色が、ルチアーノを包む守護の光に触れ、押し合うことなく自然に馴染んでいく。境界が薄まり、二つの光がひとつの流れに束ねられていった。
(綺麗……)
七色の層が均され、一本の筋となっていく。
ルチアーノの肩がわずかに震えた。
「……光だ」
囁くような声が響く。
「灯りの位置が……わかる」
ロゼッタの視界が一瞬霞む。
彼の瞳は焦点を結ばないまま。それでも、油灯の方向へ顔を向けている。その青い瞳の表面には確かに光が宿り、そこにロゼッタの影も映り込んでいる。だが彼自身は、それを知覚していない。
「誰か……いる」
ロゼッタは思わず一歩踏み出す。
「……ロゼッタか」
「はい。ここにおります」
声の震えを止められなかった。
ルチアーノの瞳に、探る色が浮かぶ。焦点は合わない。それでも、何かを見つけようとしている。
「輪郭が……」
言葉は途切れ、彼はほんの少し顔を傾ける。
「あなたを」
視線が、明確にロゼッタを求めている。
「あなたを、ちゃんと見たい」
それは報告ではなく、飾らない願いだった。
ロゼッタの鼓動が跳ね上がる。
(本当の私を)
その瞬間、意識の奥に浮かんだのは自分の髪だった。
幼い頃から母に言われるまま、染め続けてきた色。本来の髪色について理由を聞いたことはない。ただ「そうしなさい」と言われ、その意味を深く考えないまま従ってきた。
なぜ隠す必要があったのか。
そもそも、隠しているのかどうかさえ確かめたことがなかった。
その思考がよぎった途端、術式の光が歪む。
「……今、曇ったな」
ルチアーノの声が低く落ちる。
ニコラスが詠唱を微調整する。光の揺らぎが収まり、流れは再び均衡を取り戻した。
「共鳴は成立しております。ただ、安定はまだ十分とは申せません」
魔法陣の輝きが徐々に薄れ、床の線が元の石色へ戻っていく。
「完全ではない」
ルチアーノの声は落ち着いている。
「はい。ただ、守護の波長は確実に揃い始めています」
ニコラスは続けた。
「さらに共鳴が安定すれば、視界が広がる可能性はございます。ほんの少しではありますが、改善の兆しは確認できました」
ロゼッタは瞬きを忘れ、ただルチアーノを見つめていた。
(戻るかもしれない)
大きな喜びではない。けれど、希望の光が心を照らす。
「今日はここまでにしよう」
ルチアーノが言い、陣の外へ一歩出る。ロゼッタは腕を差し出し、静かに彼を私室まで送り届けた。
◇ ◇ ◇
戻る廊下で、ロゼッタとニコラスは並んで歩く。
「……精神が揺らげば、視界も乱れるのですね」
「はい。殿下の守護は、内面の均衡と強く結びついております」
廊下の角に掛けられた鏡が目に入る。ロゼッタは足を止めた。
灯りを受けて、ローズブラウンの髪が深い色を帯びる。
(私は、まだ知らない)
本来の髪色が何を意味するのか。
なぜ母は隠すよう命じたのか。
ゆっくりと顔を上げ、背の高いニコラスを見上げた。
「ニコラス様。少しの間、実家へ戻らせていただけませんか」
紫がかった瞳が、まっすぐにロゼッタを見つめる。
「理由は?」
「殿下の守護を安定させるために。そして、私自身が揺らがないために」
短い沈黙のあと、ニコラスは頷いた。
「数日であれば問題ありません。誘拐事件もありましたし、殿下には精神を安定させるための休養と説明します」
ロゼッタは深く頭を下げる。
それはまだ小さな決意に過ぎない。
それでも、次の一歩は確実に、彼女の足元で形を取り始めていた。




