51 ロゼッタの前世
朝の支度をするため、ロゼッタはルチアーノの私室へ向かっていた。
(信じてもらえなくても、話す)
昨夜の笛の余韻が、まだ身体のどこかに残っている。音を送り出しながら押し込めていた疑問も、口にできないままの名も、そのまま朝へ持ち越してしまった。だからこそ、もう目を逸らさないと決めた。
殿下は「気になる」と言った。ロゼッタ自身も、このまま曖昧にしていたくない。
廊下の角に、小さな鏡が掛かっている。普段なら視線を送るだけで通り過ぎる場所だが、ロゼッタはそこで足を止めた。
鏡の中に自分が映る。
ローズブラウンの髪をきっちり結い上げ、顔色も落ち着いている。だが、蜂蜜色の瞳だけがいつもと違った。決意を秘めた火が灯り、揺れながらも逃げてはいない。
(怖い。でも、引き返さない)
唇を引き結び、鏡から目を離す。
扉の前で呼吸を整え、控えめにノックをした。
「殿下。おはようございます」
「入れ」
室内に足を踏み入れると、ルチアーノの身体が自然にこちらへ向いた。焦点を結ばない青い瞳は変わらず澄んでいるが、そこには微かな緊張が宿っている。昨夜、言いかけて止めた言葉が、まだ彼の中で燻っているのだろう。
ロゼッタは支度を始めながら、頃合いを見計らう。殿下を惑わせる隠し事をしたくない――その思いが背中を押していた。
「本日、お話ししたいことがございます」
声は、自分でも意外なほど落ち着いていた。
「今か」
問いは簡潔だが、軽くはない。
「夜に。よろしければ時間をいただきたいのです」
ルチアーノはすぐに返答しなかった。
ロゼッタは手を止めずにいる。動きを止めれば、躊躇いが表に出てしまいそうだった。
「……夜なら大丈夫だ」
返事はそれだけだったが、心にほのかな安堵が広がる。
「ありがとうございます」
頭を下げ、いつも通りの動きへ戻る。日常の秩序を保つことで、内側の決意も崩れずに済んだ。
◇ ◇ ◇
夜になり、ルチアーノとロゼッタが向かったのは、ソフィア前王妃の肖像画が飾られた部屋だった。油灯の光が穏やかに揺らめき、淡い金髪と深い青の瞳を照らしている。ロゼッタは、ここでは虚勢が通じないと直感していた。
(ソフィア前王妃の前では、取り繕えない)
ルチアーノは椅子へ腰を下ろす。
ロゼッタは真正面ではなく、横へ寄った位置に立った。対峙するのではなく、同じ方向を向く形を選ぶ。
「話したいこととは」
ルチアーノが促す。
ロゼッタは一度だけ肖像画へ視線を向け、すぐに戻した。
「信じていただけないかもしれませんが……私はロゼッタとして生まれる前の記憶を持っています」
一拍置き、言葉を継ぐ。
「こことは違う、別の世界で生きていました。そこでも家族がいて……弟がいました」
ルチアーノは否定せず、慎重に疑問を呈した。
「別の世界、というのは――夢ではないのか」
「夢だと言い切れるほど、頼りないものではありません」
ロゼッタはゆっくり、彼を置き去りにしないように答えた。
「覚えていることは途切れ途切れですが、私の行動の要です」
油灯の火が揺らめき、ルチアーノの頬に影を落とす。
「……弟とは」
「弟の名は、詩音といいます」
名を口にした瞬間、無意識に手を握りしめていた。
「病気になり、途中から視力を失いました。私はずっと弟の介助をしていました。手を貸し、声をかけ、選ぶのは本人だということを、互いに失敗しながら覚えました」
ルチアーノは、真意を探るように問いを重ねる。
「弟なのだな」
「はい。弟です」
「……恋人ではなく」
「違います。弟です」
瞬きをしてから、きっぱりと否定する。
「私が覚えているのは、弟を庇って事故に遭ったことまでです。それから、気づいたらロゼッタとしてこの世界にいました」
事実を置くと、ルチアーノは瞑目した。
「なぜそれを、今まで私に言わなかった」
責める響きはないが、核心を外さない。
「信じていただけると思いませんでした。誰にも話したことがない記憶です」
ロゼッタは正直に答える。
「殿下の前では、私は普通の侍女でいたかった。過去の話が、今の距離を歪めるのが怖かったのです」
ルチアーノは口元に手を当て、しばらく俯く。
「殿下を見ていると、どうしても思い出してしまうのです」
そして、誤解のないように言葉を紡ぐ。
「でも、重ねてはいません。殿下は殿下です。弟と同じだと思ったことはありません。似ているからではなく――殿下の在り方が、私の記憶に触れるのです」
支援の仕方。距離の取り方。判断を奪われることへの拒否。
それらが、あの頃の自分を呼び起こす。
ルチアーノは束の間、黙り込む。やがて、過去を辿るように呟いた。
「だから、歩き方や、食事の工夫を知っていたのか」
「はい」
「指で読む文字を知っていたのも」
「はい」
問いは続く。疑うためではなく、理解の輪郭をなぞるために。
「最初から私に教えるつもりだったのか」
「いいえ」
ロゼッタは迷わない。
「殿下が望まれたからです。望まれなければ、私は差し出しませんでした」
ルチアーノは深く息を吐く。
「荒唐無稽だ」
「そう思われて当然です」
ロゼッタは受け止め、真摯に思いを連ねた。
「でも、隠したままでは傍にいられないと思いました」
長い沈黙ののち、ルチアーノが顔を上げる。
「私は、あなたが見る私であればいい」
比べず、退かない言葉だった。
その一言が、ロゼッタの内側へ静かに広がる。
(この人は、過去に縛られない)
救いが、微かに心の中で芽吹く。
そのとき、扉が叩かれた。
「殿下。ニコラスでございます」
「入れ」
ニコラスが一礼して入室する。濃紺の髪をまとめており、片側の三つ編みが肩へ落ちる。紫がかった瞳が灯りを受け、部屋の気配を読み取った。
彼は無駄を挟まず報告する。
「マリーニ子爵領より届いた虹色魔石ですが、研磨が完了いたしました」
ロゼッタは思わずニコラスを見上げた。
(領地から珍しい魔石が届いた、ということだけは知っていたけれど)
「触媒として整えております。守護の波長を安定させる媒介です」
「それで、何が起きる」
ルチアーノの問いに、ニコラスは注意深く答える。
「もしかしたら、ほんの少しの可能性ですが……視力が戻るかもしれません」
部屋の空気が変わる。
(戻る……?)
「断言はできません。ただ、共鳴は安定してきています。治癒魔術の術式も再構成しました。段階的に試みます」
ニコラスは希望と慎重さを並べた。
油灯の光が肖像画を淡く照らす。
母の青い瞳は、判断を委ねた距離のまま、こちらを見守っている。
(もし、ほんの少しでも)
ロゼッタの心に、小さな光が灯る。
夜はまだ長い。
それでも、確かな変化がそこにあった。




