50 聞けない名前
昨夜から、ロゼッタの意識の隅に小さな棘が残ったままだった。
殿下の指先に導かれ、あの文字を辿った感触までははっきりしているのに、その名をどうして口にしたのか、その前後が不明瞭に抜け落ちている。
シオン。
ルチアーノが刻んだその名は、思い返すたびに、あの指先の温度まで蘇る。
ロゼッタは、その名を殿下の前で言った覚えがない。だが、海の夜の出来事を思い返すと、波音と焦りだけが鮮明で、言葉は霧の中に沈んでいるようでもあった。否定しきれない曖昧さだけが、心にまとわりつく。
執務室の前で足を止め、ロゼッタはゆっくり息を吸った。
ローズブラウンの髪はきちんとまとめられている。乱れはない、と自分に言い聞かせてから扉を叩く。
「殿下。失礼いたします」
「入れ」
室内に入ると、ルチアーノの身体が自然にこちらへ向いた。焦点を結ばない海色の瞳は揺れず、淡い金髪が日差しを受けて柔らかく縁取られている。座っているだけで、鍛えられた肩と背の線がくっきりと浮かび上がっていた。
ロゼッタは所定の位置で立ち止まる。
「……昨日のことなのですが」
自分の声が思ったよりも抑えられていることに気づく。
机の縁に触れていたルチアーノの指が止まった。
「……右から読ませた、あの文字のことか」
ルチアーノの声が空気を震わせた瞬間、ロゼッタの爪先から熱が引く。
(どうして)
あの名は、自分の内に閉じておくはずのものだった。
「なぜ、あの名を」
問いは最後まで形にならない。
ルチアーノはすぐに答えず、わずかな間を挟んでから静かに言った。
「聞こえただけだ」
それ以上は続けない。夜のことだとも、寝言だったとも明かさない。
ロゼッタは視線を伏せる。
「私は……殿下の前で、その名を自分から口にした覚えがありません」
覚えていない。それが精一杯の真実だった。
「責めているわけではない」
ルチアーノの声音は穏やかだが、その奥に沈む感情をロゼッタは察する。
「だが、知らない名を聞けば、気にはなる」
強い言い方ではない。それでも、完全に平静とも思えない。
(詩音)
ロゼッタの内側では、漢字の名が浮き彫りになる。
「申し訳ございません。私も……はっきりとは」
言葉が続かず、そのまま押し黙る。
やがてルチアーノが、空気を断ち切るように言った。
「今夜、笛を吹いてくれないか」
命令ではなく、判断はロゼッタに委ねられていた。
「無理なら断ってくれていい」
そう付け足しながら、机の縁に置いた指先が止まらずに彷徨っている。
ロゼッタはその様子を受け止め、答えを決めた。
「……承知いたしました」
◇ ◇ ◇
夜になり、窓の外は深い藍色に沈んでいた。執務室には控えめな灯りのみが残されている。
総プラチナ製のアウレア笛は、箱から取り出した瞬間に腕へ重みを落とした。銀笛と同じ形のはずなのに、質量の違いが手のひらから前腕へ沈み込み、冷えた白金の感触がしばらく残る。
ロゼッタは姿勢を正し、体幹へ意識を向ける。この笛は息の量も支えも、銀よりはるかに要求が厳しい。
「始めてもいいか」
ルチアーノの問いは低く落ち着いている。
「はい」
ロゼッタは深く息を吸い込み、音を送り出した。
最初の音はやや硬い。重さと呼吸が噛み合うまで、数拍の揺れがある。焦れば崩れる。ロゼッタは肩に頼らず、身体全体で支え直した。
澄んだ響きが室内を満たす。銀とは異なる透明な音色が、壁に触れて戻ってくる。
ロゼッタの視界の端に、ルチアーノの姿が映った。
彼は確かにこちらを向いている。その青い瞳の表面には光が宿り、そこにロゼッタの影もある。だが彼自身には、それが見えていない。
(そんな風に、聴かないで)
ロゼッタの思考が揺れ、指が一瞬迷う。しかしすぐに立て直した。
詩音の名が頭をよぎるが、ロゼッタは息を深く送り、音の流れを切らさない。
最後のビブラートが空気に溶けて、余韻が消えていく。笛を下ろすと、腕には鈍い疲労が残り、まだ呼吸は弾んでいた。
「……ありがとう」
ルチアーノが告げる。
その一言が心に響く。距離が縮まる感覚に、ロゼッタの頬が熱を帯びた。
「いえ。殿下がお望みでしたら」
自分でも驚くほど、声が和らいでいた。
殿下の椅子が微かに軋む。
「……いま」
ルチアーノが言いかけて止まる。
「殿下?」
「何でもない」
否定の言葉とは裏腹に、彼の呼吸は乱れ、指が強く肘掛けを掴んでいる。
ロゼッタはそこで気づく。
演奏中は音に集中していたが、今の殿下は、いつもの落ち着きを少しばかり欠いている。
「……もう一度、頼めるか」
断れる形を残していたが、ロゼッタは再び笛を口元に寄せた。
「はい」
二度目の演奏は、重さに身体が馴染み始めていた。音はよりまっすぐに伸び、空間を包んでいく。
演奏を終えても、ルチアーノはすぐに言葉を出さなかった。
「……今のは」
続きは告げられない。
ロゼッタは疑問を飲み込む。
何かが起きたのかもしれないが、今は確かめる段階ではない。
◇ ◇ ◇
別室にて。
虹色魔石は布の上で、内部の層を緩やかに変化させていた。
エルネスト・グラーフが施した研磨により、角は滑らかに整えられ、揺れは以前より小さい。
「ここまで整えれば、波長はほぼ揃います」
職人の声には確信がある。
ニコラスは石を手のひらに取り、魔力の流れを確かめた。
「助かります。これで守護との干渉は安定するでしょう」
ジャミルが問いかける。
「殿下にもたらす影響は」
ニコラスは即断せず、慎重に言葉を選ぶ。
「共鳴が安定すれば、視界に変化が出る可能性はあります」
断定はせず、可能性だけを示す。
石の内部で色がゆっくり移ろう。
遠くで、笛の余韻がまだ空気に溶けているように感じられた。
音は消えている。それでも、何かが確かに触れ合っていた。
答えは、まだ先にある。




