49 治ったはずなのに、近すぎる
朝食の卓には、まだ湯気の立つ器が並んでいる。窓から差し込む光が穏やかに部屋を照らす頃、ロゼッタは背筋を伸ばし、きっぱりと宣言した。
「本日より通常業務に戻ります」
その瞬間、対面に座っていたルチアーノの指先が止まる。
「まだ早い」
返答は早く、躊躇いを挟まない。
ステラは給仕の姿勢を保ったまま、心の中で小さく苦笑する。
(やっぱり)
淡い金髪が朝の光に柔らかく縁取られ、海の底のように澄み切った青い瞳は、焦点を持たないままでも、濁らず澄みきっている。剣術で鍛えた身体つきが、十六歳という年齢より先に「守る側」を主張してしまうのだろうか。
(今の殿下はどこか眩しい――恋をしている少年の色気、と言えば不敬かもしれないわね)
ロゼッタは怯まない。
「ニコラス様は問題ないと仰っていました」
ルチアーノの指が机の縁をなぞり、そこで止まる。
「支障はないと万全は別だ」
言葉は正しい。それでも、今はそれだけで引けない。
ロゼッタが一歩踏み出しかけた瞬間、椅子の脚が床を擦り、殿下が立ち上がった。長身の彼が影を落とすと、卓が急に狭く見える。
「待ってくれ。動くなら、先に言ってほしい」
言い終えてから、ルチアーノは手を伸ばす。いきなり掴むのではなく、位置を確かめるように手首へ触れ、確かめたらすぐに離す。
必ず一声かけてから触れる。その律儀さが、かえって彼の焦りを浮き彫りにしていた。
「座っていてくれ。……心配だからだ」
最後の一言は飾りがない。
ロゼッタは息を整え、控えの位置へ戻る。
(過保護すぎよ、殿下)
ステラは内心で呟く。
しかし同時に、殿下の声がどこか明るいことにも気づく。視線は焦点を結ばないまま、それでも身体は迷いなくロゼッタの方へ向いている。
「殿下、私は侍女です。食事をともにすることはできません」
「今日は例外だ」
言い切る声が強い。
本来ならロゼッタは背後に控えるが、殿下は椅子を引いて隣に座らせた。理由はわかっている。手の届く距離に置いておけば、確かめられるからだ。
「補助ではなく、休養だ」
冗談の形を取っているが、本気が透けている。
ロゼッタが小さく息をつく。
「息をつくほど疲れているなら、横になってほしい」
「疲れておりません」
意地の張り合いに近い。
ステラは控えながら、心の中で肩をすくめた。
(殿下、朝から全力だわ)
皿を持とうとするロゼッタに、また声がかかる。
「それはステラに任せてくれ」
「承知いたしました」
ステラは淡々と応じた。ロゼッタが言いかける。
「ステラ、いいわよ。私が――」
「駄目だ」
被せるように遮られる。そこでステラは、控えめに告げた。
「殿下」
「何だ」
「追ってばかりでは、逃げられてしまいます」
ロゼッタの頬が一気に染まる。
ルチアーノはしばらく言葉を飲み込み、それから吐息混じりに言った。
「逃げるなら、追う」
強制の響きはない。ただ、退かないという意思がある。
「……追う、って……」
それ以上は続かない。
ステラは胸の内で溜息をついた。
(やれやれ。朝から甘いわね)
◇ ◇ ◇
執務室へ移ると、空気が変わる。給仕も護衛も退き、二人きりになると、部屋の広さが逆に落ち着かない。
ロゼッタは咳払いをして、声の調子を整えた。
「では殿下、久しぶりにあの文字の確認をしましょうか」
板と紙、筆記具が卓に並ぶ。
「そうだな」
少し間を置いて続ける。
「前のように、支えてくれないか」
断る余地を残した言い方だった。けれど、その余地に頼りたくない気配が、言葉の端に混じる。
「はい」
ロゼッタは背後に回り、彼の右手を自分の手のひらで包む。
互いの呼吸が混ざりそうな近さ。肩が触れそうで触れない距離に、体温だけが先に入り込む。
金髪が視界の端で揺れ、その端整な横顔に、思わず心臓が跳ねた。見えていないはずの海色の瞳が、焦点を持たないままでも澄んでいて、余計に美貌が冴え渡る。
(こんなに綺麗な方だった?)
瞳を伏せたまま、ロゼッタは自分を制した。
仕事だ。練習だ。そう言い聞かせても、互いの距離の近さを意識してしまう。
「力は入れなくて大丈夫です」
「わかった」
点が刻まれていく。規則正しい振動が手のひらを通って届き、鼓動と混ざり合って、どちらが自分のものかわからなくなる。
「表に返して、読めるか」
ロゼッタは紙を返し、左から右へ指を滑らせた。
「……luciano」
自分の声でその名を形にした途端、距離が一段近づいた気がして、指先がわずかに震える。
頬に熱を帯びるのが、自分でもはっきりわかる。
「読めたな」
返ってきた声は平然としているのに、距離だけが近いままだ。
「次は、読む向きを示す。触れてもいいか」
「はい」
了承を得てから、彼はロゼッタの手に指先を重ねる。包み込むのではなく、向きを導くための接触。
その指先が、別の行を右から左へ、ゆっくり動く。
「……sion」
ロゼッタの指が止まる。
止まったのは指先だけではない。思考も、息の流れも途切れた。
(……どうして)
その名を、殿下の前で口にした覚えがない。
覚えがないのに、否定もできない。海の夜の記憶は曖昧で、夢の断片は焦燥だけが残っていた。
重なった指先の力が、わずかに強まる。
気のせいかもしれない。けれど、そう感じた時点で、もう抗えない。
「名は残るな」
問い詰める響きではない。答えを求める口調でもない。
ただ「知っている」という事実だけが置かれた。
ロゼッタは返事ができない。
聞き返したいのに、喉が渇いて声にならない。
(なんで知ってるの……?)
驚きと疑問だけが残る。
冷たくなった指先が、殿下の温度をただ受け止めていた。
◇ ◇ ◇
別室で、ニコラスは持ち込まれた虹色魔石を観察していた。
布の上に置いた石は、内部の層そのものが緩やかに色を移し、呼吸するように明滅している。
「原石のままでは使えません」
そう告げてから、ニコラスは石をわずかに傾け、内部に残る不純物と波長の揺れを読み取るように見た。
このまま殿下の守護魔法と接触させれば、共鳴が乱れ、守護の流れが意図しない方向へ跳ね返る可能性がある。求めるのは安定であり、この魔石を守護の波長に沿う媒介へ整えなければならない。
「この魔石を触媒として用いるには、研磨と精製を経て、共鳴の癖を均す工程が必要です。触媒とは力を過不足なく通し、正しい形で伝えるための媒介になります」
ジャミルが問いを挟む。
「任せられる者は」
ニコラスは即答せず、条件を置いた。
「口が堅く、魔石の癖を読む技術を持ち、波長合わせまで扱える職人が望ましい。こちらの事情を内密にし、余計な詮索をしない者でなければなりません」
琥珀色の視線は鋭いまま、ジャミルは答えた。
「グラーフ工房なら条件を満たします。ロゼッタ嬢が笛を預けた際、工房主の技術と人間性は確認済みです。出入りも目立たせずに済みます」
それを聞いて、ニコラスは沈思してから結論を出す。
「では、そこへ。守護の波長と干渉させる以上、誤差は許されません。成功すれば殿下の守護は安定し、王家にとっても、制御できる形の力として扱えるでしょう」
「承知しました。出入りは自分が管理します」
役割が定まり、石の色が淡く移ろう。
(噛み合えば、前へ進む)
断定はしない。だが、偶然にしては出来すぎている。
廊下の向こうで、二人が並ぶ。距離は近い。
名は、まだ呼ばれない。




