48 近すぎる距離と、離れない指先
離宮の診療室は、薬箱と清潔な包帯の束が棚に整然と並び、窓から差し込む柔らかな光が室内を淡く満たしていた。白布を掛けた寝台と低い卓子が置かれ、開けられた窓から庭に咲く花の香りが流れてくる。
その寝台に、ロゼッタは背を枕に支えられ、静かに横たわっていた。
「傷は深くありません。痕はしばらく残るかもしれませんが、日常の動作に支障が出ることはないでしょう」
ニコラスが手首の包帯を丁寧に巻き直しながら告げる声は、いつもと変わらず穏やかだった。診察のために触れられる指先は正確で、痛みを増やさぬよう細心の注意が払われていることが伝わる。
「ありがとうございます」
礼を述べようと身を起こしかけた瞬間、ニコラスの手が静かに制した。
「今は安静を優先してください。動くのは完全に回復してからです」
その言葉のすぐ隣に、もう一つの気配があることを、ロゼッタは強く意識していた。
とても近い位置にある椅子。
視線を横に向けると、ルチアーノは当然のようにそこに座っていた。診察を見守るというよりも、支える役目を自らに課しているかのように、彼女の手を包んだまま離そうとしない。
「……殿下」
「支えたいだけだ」
返答は淡々としているが、指先にこめられた力は確かで、迷いはない。
ニコラスは一瞬だけ二人の距離を測るように視線を動かし、控えめに咳払いをした。
「殿下、診察の妨げになります」
「邪魔はしていない」
「距離が、という意味です」
「適正だ」
即答だった。
その言葉にわずかな苦笑を浮かべつつ、ニコラスは包帯の結び目を整え、患部に淡い治癒の光をかざす。
「今夜はここで休んでください。移動は明日以降に」
「自室で大丈夫です」
ロゼッタが反射的に言うと、すぐに低い声が重なった。
「却下だ。離宮内だから、安全は確保されている」
理屈は整っている。整いすぎているからこそ、胸がざわつく。
ニコラスは一礼し、道具を片付ける。
「何かあればお呼びください」
扉が閉まると、室内には二人分の呼吸だけが残った。
ルチアーノの手は、まだ離れない。見えないはずの視線に、見守られているような錯覚を抱く。
(殿下の温もりに安心している……)
その自覚が、胸をざわつかせた。
地下の冷たい空気。縄の食い込む痛み。視界を奪われた暗闇――そして、扉が開いた瞬間に響いた声。
『ここにいる』
呼吸が浅くなる。
さらに、言葉が蘇る。
『私の傍にいてほしい』
(だめ)
まだ、答えていない。
『あなた自身の意思で』
あのとき、頷きかけた自分を思い出す。怖かったからではない。嬉しかったからだ。
ルチアーノの親指が、わずかに動く。
「痛むか」
「……いいえ」
嘘ではない。痛みはほとんど引いている。それでも、手は離れない。
「冷えている」
声は穏やかで、理性を崩してはいない。だが、包む指先の温度は確かだった。
(このままでは、きちんと答えられない)
胸の奥が熱を持つ。
「殿下」
「なんだ」
「近すぎます」
声が思ったより小さくなる。
「問題はない」
「あります」
「どこが」
「……距離が」
言い終える前に、ルチアーノがわずかに身を寄せる。触れてはいない。ただ、存在が近い。
「近くなければ、届かない」
静かな声に、心臓が跳ねる。
(ずるい)
理性の言葉でありながら、甘い。
「……落ち着いてから、です」
「何が」
「昨日のことは……落ち着いてから、もう一度」
沈黙が落ちる。ルチアーノの指先に、ほんの少し力がこもる。
「急がない」
短い一言が、胸を締めつける。
「だが、離れない」
(離れないでほしいと思ってしまう自分が、一番困る)
目を閉じると、鼓動が耳に響く。
距離はまだ、侍女と王子のまま。けれど心は、確実に揺れている。
◇ ◇ ◇
診療室を出たニコラスは、廊下の先で足を止めた。
「北方より帰還しました」
音もなく現れたジャミルが一礼する。
「正式な報告はのちほど。先にこちらを渡します。マリーニ子爵領の坑道で、つい先日掘り出されたばかりのものです」
差し出された布包みを受け取る。
布を解くと、虹色を帯びた石が姿を見せた。表面が光を反射しているのではなく、内側から淡く揺らいでいる。
「……珍しい波長ですね」
「マリーニ子爵夫人が、ニコラス様に渡してくださいと」
指先に伝わる感触は、通常の魔石とはわずかに異なる。
闇の気配はない。
その瞬間、診療室の奥から、微かな魔力の揺らぎを感じた。強くはないが、確かに共鳴の兆しがある。
(殿下の守護と、干渉している……?)
断定はできない。だが見過ごすこともできない。
「記録は秘匿扱いに。研究に回します」
「承知しました」
ジャミルが頷く。ニコラスは石をもう一度見つめた。
偶然かもしれない。だが、偶然にしては出来すぎている。
診療室の扉の向こうでは、第一王子が静かにロゼッタの手を握っている。
そして石は、わずかに光を揺らしていた。
まるで、応えるかのように。




