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盲目王子の専属侍女── 一歩先を導く侍女と追放王子の逆転劇  作者: チャーコ


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46 救いの口づけ

 扉の前で、ルチアーノは一度だけ足を止めた。


 木と鉄の匂いが濃く、湿り気を含んだ空気の奥に血の鉄臭さが混じっている。そのさらに奥に――覚えのある石鹸と柑橘の香りが、微かに残っていた。


(ここにロゼッタがいる)


 ニコラスが鍵穴の位置を確かめ、護衛騎士が周囲を固める。狭い通路の空気が張り詰め、魔石灯の光が揺れた。


「殿下」


 低い合図に、ルチアーノは杖の先を扉へ当て、木目の硬さと金具の位置を指先で読む。焦りはある。だが、その焦りで判断を濁らせれば、ここまで辿り着いた意味が消える。


「開けるぞ」


 短い言葉の直後、扉が押し開けられた。重い蝶番が鳴り、冷えた空気が流れ出す。

 風が一筋、部屋の奥へ走る。


 砂のざらつき、縄の繊維、汗の残り香。密室の中で混ざり合ったそれらが、息を吸うだけで喉の奥に残った。


「……ロゼッタ」


 返事はない。


 だが、呼吸がある。浅く、細く、揺れている。生きている――それがわかった瞬間、膝が折れそうになり、ルチアーノはそれを押さえ込んだ。


 ルチアーノは杖で床を確かめながら進む。ニコラスが肩を貸すが、歩幅は崩れない。速さと乱れを履き違えるつもりはなかった。焦って最短を狙うより、確実に辿る方が早いことを、彼は知っている。


 風が床の上の輪郭を教える。冷えた石の上に、体温が落ちている。


「……そこか」


 片膝をつく。


 最初に触れたのは縄だった。硬く締められ、皮膚に深く食い込んでいる。指を滑らせるだけで、どれほどの時間が経ったかがわかる結び目の乾きと、擦れた繊維の荒さがあった。


 次に触れた手首は湿っていた。血が滲み、縄に吸われている。乾ききっておらず、新しい痛みが続いている。


(締められてから、時間が経っている)


 護りの印が揺らぎ続けた理由が腑に落ちる。転倒ではなく、短い衝撃でもない。痛みが、継続している。


 指を滑らせると布に触れた。目隠し。口元も塞がれている。息はできるが、声は出ない。視界も奪われたままで、長く続けば恐怖は増していくはずだ。


 ルチアーノは一度、呼吸を整えた。触れ方ひとつで彼女の身体はまた強張る。生き延びてきた緊張が、まだほどけていない。


「ロゼッタ。私だ」


 声を低く落とし、距離を詰めすぎない角度で告げる。


 返事はない。だが、呼吸が一度だけ大きく乱れた。唇を塞ぐ布越しに、息が詰まる音がする。


 ルチアーノは結び目を探り、ほどく。乱暴に引けば皮膚が裂ける。指先の感覚だけで布を外すと、口元が解放され、息が漏れる音が小さく震えた。


 次に目隠しへ手を伸ばす。


(怖がらせない)


「外すぞ」


 言葉を置いてから、布を外した。


 灯りの中でロゼッタの視線が揺れる。焦点が定まるまでの刹那、彼女の喉が鳴った。


「……でん、か」


 掠れた声。


 呼べたこと自体が、彼女の必死さを示している。その一音が、肺の内側をきつく締めつけ、言葉にならないものが喉の奥へ押し上げられたが、ルチアーノはそれを外へ漏らさなかった。


「ここにいる」


 短く答えると、ロゼッタの肩が震えた。堪え続けていたものが、静かに崩れ始める震えだ。


 涙の匂いが増す。


 ルチアーノは背に手を回し、まず体勢を安定させた。急に引き上げれば縄が食い込む。痛みを増やし、彼女の判断を削る。彼女が守ってきたものを、こちらの焦りで壊すわけにはいかない。


 足首の結び目を解き、手首へ移る。固い結び目をひとつずつほどき、皮膚を傷つけない角度で縄を外す。


 縄が解けた瞬間、ロゼッタの指が震えた。力はなく、それでも何かを掴もうとする。生きるための反射のように。


 最後の結び目がほどける。

 ロゼッタの手が宙を彷徨い、次の瞬間、ルチアーノの衣を掴んだ。


「……怖かった、です」


 震える声が耳に届く。

 それは哀れみを乞う声ではない。生き延びた者が、ようやく口にできた本音だった。


 ルチアーノは彼女を抱き寄せた。押さえつけず、支えるだけの抱擁。


「……すまない」


 喉の奥で言葉が詰まる。


「私が遅れた」


 ロゼッタの肩が小さく跳ねた。


「ちが……っ、ちがいます」


 否定が先に出る。彼女は揺れているが、崩れない。


「……でも、殿下が来ると……信じて、ました」


 途切れ途切れの声が、まっすぐに刺さる。


 ルチアーノは彼女の髪に触れ、乱れた束を指先で整えた。肌は冷えている。石畳の冷えが移った冷たさが、指先に触れる。


(体温が落ちている)


 呼吸が浅い。縄の痕がまだ熱を持っており、痛みで考える力が削られている。


(痛みが続けば、思考も削られる。……今は、守ることだけを選べ)


 怒りに変えてはならないと理解しながら、胸の奥の熱を静かに受け止める。

 それを壊すのではなく、救うために使うと決めた。


 光でも風でもない。もっと静かで、もっと深いものが、ゆっくりと形を取ろうとしている。


 ルチアーノはロゼッタの背を抱いたまま、深く息を吸った。息に合わせて、澄んだ熱が内側から広がる。次の瞬間、それが外へ溢れ出した。


 魔石灯とは異なる淡い光が部屋を満たした。


 ニコラスが息を呑む気配がする。護衛騎士も身じろぎを止めた。だが、ルチアーノは言葉にせずに動く。


 淡い光がロゼッタの手首へ静かに落ち、縄の痕がゆっくり和らいでいく。痛みが引くのが、彼女の呼吸でわかる。浅かった息が少しずつ深くなり、肩の力がわずかに抜けた。


「……あ……」


 声が漏れた。

 ルチアーノは彼女の頬に触れ、涙を拭う。指先に温度が残る。


(触れている方が、深く届く)


 彼は理解した。この魔法は、距離よりも接触を媒介として深く届く。


 ルチアーノは彼女の顔に手を添えた。触れ方を誤れば、彼女の判断を奪う。だからこそ、声を置く。


「ロゼッタ」

「……はい」


 声が小さい。けれど逃げない。

 躊躇いを飲み込み、彼は選んだ。


「……触れる」


 柔らかく口づけた。

 深さはなく、押しつけでもない。ただ確かな接触。

 唇が離れるまでの間に、彼女の呼吸が一度だけ揃い、浅さが消えていった。


 ルチアーノは唇を離し、彼女の額に指先を当てた。


「もう大丈夫だ」


 ロゼッタの涙が、今度は止まらなくなった。声を上げて泣くのではない。嗚咽を必死に飲み込みながら、解放の涙が頬を伝う。


「……っ、う……」


 ルチアーノは抱きしめたまま、彼女が崩れないよう背を支える。もう離さない。だが、縛りつけない。彼女の意思が戻るまで、支え続ける。


(間に合った)


 内側の熱がさらに強くなり、言葉になろうとする。

 ここまで来たのは判断だった。状況を読み、最短を選び、誇りを落とさずに辿り着いた。


 そして――ここからは、彼の意思だ。


 ルチアーノはロゼッタの手を取り、手のひらを包んだ。指先は冷えかけていたが、少しずつ温度が戻っている。


「ロゼッタ」


 もう一度呼ぶ。


「あなたを失うことを、私は受け容れられない」


 不器用な言い方だった。


「侍女として必要だからではない」


 一度、息をつく。それから迷いなく続ける。


「私の傍にいてほしい。……あなた自身の意思で」


 ロゼッタの睫毛が震える。泣きながら、彼女は顔を背けない。


「殿下……ありがとうございます」


 それから、はっきりと言う。


「でも、今は……承諾できません」


 ルチアーノの指先が止まる。怒りではなく、理解しようとする沈黙だった。


「私は侍女です。……殿下が、今の状態で口にされた言葉を、そのまま受け取ってしまったら」


 息が詰まり、涙が落ちる。それでも目を逸らさない。


「殿下の判断を、私が奪ってしまいます」


 ルチアーノは黙って聞いている。


「怖かったです。……だから、今の私は、すぐに頷いてしまう」


 ロゼッタは震える声で、たどたどしく続ける。


「それは、ずるいです。……私が、弱いままの返事になってしまう」


 囁くような細い声が耳を打つ。


「殿下が落ち着いて、もう一度、同じ言葉をくださったら」


 息をつき、涙を拭う余裕もないまま、ロゼッタは言い切った。


「そのときに、私も……自分の判断で答えます」


 その誠実さが痛いほど刺さる。だが同時に救われる。


(……ロゼッタ)


 頬へ触れ、涙の跡を拭う。


「わかった」


 短く、揺るがずに承諾した。


「今は、救い出した。それで十分だ」


 ロゼッタの肩が落ち、ようやく身体が弛緩した。


「殿下、外へ」


 ニコラスが一歩だけ近づく気配がする。

 ルチアーノは頷き、ロゼッタの身体を慎重に支え起こす。


「……殿下」

「ここにいる」

「……来てくださって、ありがとうございます」


 返事は急がない。代わりに、握る手に力を込める。


 外気は冷たいが、内側に灯った熱は消えない。今はまだ燃え上がらない静かな火だとしても、消えることはない。


 第一の山は越えた。

 恋はまだ名づけられていない。しかし、もう後戻りはできなかった。

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