45 暗闇の剣
時計塔へ続く地下回廊は、外の喧騒から完全に切り離されていた。厚い石壁に囲まれた空間は湿気を孕み、長く閉ざされてきた空気が重く沈殿している。魔石灯の揺らぎが壁の紋章を歪ませ、影が長く伸び縮みするたびに、静寂の質が変わった。
胸元の護りの印はまだ消えていない。弱いが、確かに続いているその揺らぎが、胸の奥を細く引いていた。
(間に合う)
焦りを奥へ押し込み、呼吸を一定に整える。
ニコラスが灯りを掲げ、もう一方の肩を王子に貸す。杖の先が石を探り、段差を読み、進むべき角度を選ぶ。焦燥はあるが、歩幅は崩れない。離宮で幾度も繰り返した、歩行訓練の延長線上にある動きだった。
そのとき、通路の奥から低く乾いた笑いが響いた。
「……やはり来たか、兄上」
魔石灯の光が奥を照らすと、壁にもたれかかる男の姿が浮かび上がる。
リカルド・ディ・ヴァレンティーノ。
剣を片手に、わずかに顎を上げて立っている。その背後には粗野な男たちが三人、すでに身構えていた。足元には革袋が転がり、中で金貨が擦れ合う音が微かに鳴っている。
ルチアーノは足を止めた。
「……自ら出てくるとは思わなかった」
声は平坦で、揺れない。
リカルドは嘲るように口元を歪めた。
「俺が出てこなければ意味がないだろう」
一歩、踏み出す。
「侍女の分際で、生意気にも王宮の政務に口を挟む女だ。兄上の後ろ盾があるからといって、自分の感情で動いていいはずがない」
その言葉に、地下の空気がわずかに軋んだ。
「あんな女に好き勝手させておけるか。兄上の前で得意げに振る舞い、離宮の判断を王宮に持ち込む。下級貴族の女が、王宮の秩序を乱しているんだよ」
声は次第に熱を帯びていく。
「兄上が退いた以上、王宮を動かすのは俺だ。俺が王太子代理なんだ。出しゃばる女は排除する。それだけのことだ」
リカルドの言葉の端々には、正義を主張する響きがあった。
それを聞いても、ルチアーノは表情を変えない。
「秩序、か」
低く反芻する。
「そうだ。兄上は優しすぎる。慎重すぎた。だが俺は違う。王宮は甘さで回らない。邪魔な駒は盤から外す、それだけだ」
背後の男たちが息を荒らげる。
「金はもらった。あとは――」
言い終わる前に、護衛騎士が動いた。
狭い通路での戦闘は長引かない。王宮で鍛えられた剣筋は無駄がなく、荒くれ者の踏み込みを正面から受けずに角度を外し、重心を崩す。足払いと肘打ちがほぼ同時に決まり、数呼吸のうちに三人は石床へ伏せられた。
だが、奥に立つ男は一歩も退かない。剣を手に構えを崩さなかったのは、リカルドただ一人だった。
「……やはり下等な者に任せたのが間違いだったか」
剣を持ち直し、構えを取る。その構えは素人ではない。王族として受けてきた訓練が身体に残っている。重心はやや高いが、足運びに迷いはない。
「だが、兄上」
一歩、近づく。
「目が見えない状態で、ここまで来られるとは思わなかったな」
あの日の中庭と同じ声音。
「その杖がなければ、段差もわからないだろう?」
虚勢だ。だが完全な空威張りでもない。
ルチアーノは静かに言った。
「灯りを」
それは合図だった。
騎士の一人が蝋燭を吹き消し、ニコラスが魔石灯の魔力を断つ。
闇がその場を飲み込んだ。
石の冷気が一気に濃くなり、視覚に頼る者に混乱が生まれる。
「な――」
リカルドの息が乱れた。
闇は、ルチアーノにとって差のない世界だ。
音がある。呼吸がある。布が擦れる音、足裏が石を踏む硬さ、剣が空気を裂く微かな振動。
リカルドが踏み込む。振り下ろしは直線的で、わずかに重心が浮く。
ルチアーノは受けない。半歩ずらし、角度を逃がす。
仕込み杖が滑り、蛇の意匠の柄が静かに鳴る。内側から刃が現れる。
石を踏む音が半拍早い。その隙へ杖の先を滑り込ませる。
重心が崩れ、膝が石に打ちつけられる音が響いた。
「……っ!」
喉元へ刃を置く。
切らない。ただ、置くのみ。その冷たさだけで十分だった。
「中庭で言ったな」
低く、抑えた声。
「見えなくてさ、と」
刃が少しだけ、存在を示すように動く。
「その杖がなければ困る、とも」
闇の中で、ルチアーノはわずかに身を屈める。
「私は、立っている」
灯りが戻る。
照らされたのは、喉元に刃を当てられた第二王子の姿だった。
護衛騎士は荒くれ者を拘束し終えている。革袋が押収され、封蝋が確認される。
「第二王子殿下の私印です」
淡々とニコラスが告げると、リカルドの顔が醜く歪む。
「王族のみが知る通路を、金で売った。理由は侍女への短絡的な排除衝動」
「そんなもの、俺が命じた証拠にはならない!」
ニコラスを遮るように、第二王子の上擦った声が響く。
「兄上が目を閉じたからだ! あんたが退いたから俺が動いた! 王太子代理は俺だと言っただろう!」
喉元の刃に触れるほど身を乗り出し、叫ぶ。
「女一人守れないくせに、何が第一王子だ!」
言葉の端が掠れ、もはや焦燥だけが露わになっていた。
ルチアーノは刃を押さない。
「殺さない。王族だからだ。……私も、お前も」
静かに告げる。
「だが、ここで終わりだ。あとは正式な裁定を待て」
刃を引き、杖へ戻す。
護衛騎士がリカルドを拘束する。抵抗しようとするが、押さえ込まれた。
胸元の護りの印が、確かに強く震えた。
奥に、湿った木の匂いと血の鉄臭さがある。
「隠し部屋だ」
胸の奥が一段だけ熱を帯びる。
(ここまで来ている)
怒りはない。あるのは焦りだけ。
(間に合え)
「開けるぞ」
扉の向こうに、まだ揺らぎがある。
王子は、一歩踏み出した。




