44 光と風の追跡
執務室に流れていた報告の声が、途切れたわけでもないのに、唐突に遠く感じられた。
ルチアーノの指先が、机の端で静止している。
胸元の奥で、微かな熱が脈打っていた。弱い。それでも消えない。ひと呼吸置いてまた震え、胸の奥を細く引く。
「……ロゼッタが傷を負った」
低く落ちた声に、ニコラスが顔を上げる。
「殿下?」
「護りの印が反応している」
以前、魔力の質を確かめた折に、念のため彼女の魔力へ薄く重ねておいた守護の術式だ。強くかけてはいない。位置を示すものでもない。ただ、強い痛みや出血が続く場合にのみ、術者へ返るよう編んだ最低限の備え。
「強くはないが、揺らぎが途切れない」
室内の空気が、わずかに張りつめる。
ニコラスは目を伏せ、短く息をついた。
「本来であれば、王族が侍女一人のために自ら動くことはございません」
諫める調子ではない。ただ、常識を確認している。
「わかっている」
ルチアーノは立ち上がる。
「だが、これは例外だ」
理由は口にしない。感情に名を与えれば、判断が濁る。
「位置を追う」
◇ ◇ ◇
半刻もかからず、馬車は整えられた。
御者台に精鋭の騎士が上がり、内部にはルチアーノ、ニコラス、護衛二名が乗り込む。鞭の音が鳴り、石畳を蹴る振動が続いた。
揺れの中で、ルチアーノは目を閉じる。
胸元の揺らぎは、弱いながらも確実に南へと流れていた。
「南だ」
ニコラスがすぐに地図の位置を思い描くように応じた。
「市場方面ですね」
馬車は速度を上げる。
ニコラスが窓をわずかに開けると、王都の空気が流れ込んだ。荷車の軋み、鉄の擦れる音、行商の呼び声、汗と土の匂い。重なり合う情報が押し寄せる。
ルチアーノは風を呼んだ。
すべてを拾えば意味をなさない。削ぎ落とす。乱れだけを選ぶ。
短い怒号の残響。足音が一点に集中していた歪み。
「……囲みの名残がある」
「争いですか」
「ああ」
馬車を止めさせる。
ニコラスが腕を差し出し、ルチアーノは杖で石畳を確かめながら降り立った。踏み荒らされた空気の熱が、まだ残っている。
数歩先で、護衛騎士が倒れているのを別の騎士が見つけた。
「脈はあります」
ニコラスは迷いなく膝をつき、両手をかざす。淡い治癒の光が頭部を包み、内部の揺らぎを整えていく。
やがて騎士の喉が震え、荒い呼吸が戻った。
「……殿下……ロゼッタ殿が……」
「囲まれたか」
「六、七人……女だけでいい、と……南へ……」
断片的な証言だが、十分だった。
ルチアーノは一瞬、目を閉じる。
(彼女は、騎士を生かす方を選んだ)
騎士は生きている。
胸元の揺らぎは、まだ続いている。
「止まっていない」
静かな声だった。
「後詰めを呼べ。騎士を離宮へ戻せ」
命じると、ルチアーノは一歩進み、風をさらに薄く広げた。
乱れはまだ残っている。足音が急激に増え、方向転換した痕跡が二度、鋭く折れている。
「二度、曲がっている」
「路地を使っていますね」
ニコラスに肩を借りて石畳を進み、最初の角を曲がる。踏み荒らされた空気の熱が、まだ残っている。さらに数歩進み、二つ目の角を曲がった瞬間――。
杖の先に、柔らかな感触が触れた。
屈み込み、指先で確かめる。
布だ。刺繍の凹凸がある。
『rosetta』
胸元の揺らぎが、わずかに強く波打つ。
(無抵抗ではない。……私を、信じている)
ここまで、自分の足で来ている。
怒りは湧かない。代わりに、焦りが静かに熱を帯びる。
(間に合え)
「この先だ」
◇ ◇ ◇
王宮外縁に近づくにつれ、風の流れが変わった。
石壁に沿って、わずかに吸い込まれる気配。
「風が、石壁に沿って落ちている……」
一拍、沈黙してからルチアーノは断じた。
「時計塔だ」
低く告げる。
「正門は使わない。地下へ回る」
馬車を降り、ニコラスの肩に手を置きながら塔へ向かう。杖で段差を確かめ、石壁の紋章へ指を滑らせると、決まった溝に触れた。
押す。
重い音とともに石壁が開き、冷たい空気が流れ出す。
現れたのは、王族専用の通路。
「灯りを」
魔石灯が掲げられ、地下へ続く階段が照らされた。
焦りはある。だが暴走ではない。
揺らぎは、まだ消えていない。
(間に合う)
理性を崩さぬまま、王子は地下へと進んだ。
◇ ◇ ◇
石段を下ろされるたび、ロゼッタの身体が揺れる。足首の縄が擦れ、痛みが走る。
(地下……)
冷たい空気が濃い。湿り気を帯びている。
足が止まり、乱暴に床へ落とされた。石の硬さが膝に伝わる。
扉を開ける音。男たちの足音。
声は出せない。縄は解けない。
それでも、数は残す。
(石段、二十七……右に曲がる)
胸が軋む。
(殿下、来ないで)
それでも、祈ってしまう。
(……でも、間に合って)
重い靴底が石を踏む。足音が、こちらへ近づく。胸の奥が、痛いほど強く脈打った。




