43 さらわれたロゼッタ
朝の光が台所に差し込み、調理台の上の野菜を淡く照らしている。ロゼッタは買い物袋の口を結び、小さく息をついた。
(今日を逃したら、しばらく入らない)
王都の市場に、ごく稀に並ぶ根菜がある。薄く刻んでも歯応えが残り、火を通しても形を保つそれは、噛むという行為そのものを思い出させる食材だった。
殿下の体調は戻っているが、食事はまだ柔らかいものが多い。無意識のうちに「噛む」ことから遠ざかっているようにも見えた。
(できることを、一つずつ戻していけばいい)
「市場へ行ってまいります」
門番に声をかけると、王宮騎士が一名ついた。ジャミルではない。だが足運びも視線の配り方も落ち着いている。単独の買い出しとしては十分な護衛だ。
市場は朝から活気に満ち、焼き菓子の甘い匂いと香草の青い香りが混ざり合っていた。目当ての店で奥から出された根菜を手に取ると、ずっしりとした重みが腕に伝わる。
(これなら、刻んでも崩れない)
支払いを済ませ、袋を抱えて帰路についた。
人通りがまばらな角を曲がった直後、護衛の足が止まる。
「……ロゼッタ殿、下がってください」
前方に三人の影。背後にも気配。横道からさらに二人、屋根の上にも一つ。逃げ道を塞ぐように間合いを詰められる。
(囲まれている)
騎士が剣を抜き、最初の一人を弾き飛ばし、二人目の足を崩す。動きは正確だ。だが三方向から同時に踏み込まれ、柄で肩口を打たれ、体勢が揺らぐ。
「女だけでいい! 傷はつけるな!」
その一言で、状況がはっきりした。
(狙われているのは、私)
騎士はまだ意識を保っている。だがこのままでは数で押し切られる。
(私のせいで命を落とさせるわけにはいかない)
「やめてください!」
思いのほか強い声が出た。
「私が行きます。だから、その方を殺さないで」
刃の動きが一瞬止まる。
「ロゼッタ殿、退いて――」
「ここで死なないでください!」
言い切った瞬間、鈍い音が響き、騎士が崩れ落ちた。
呼吸はある。意識を失っただけだ。
(生きている)
乱暴に二の腕を掴まれる。その瞬間、ロゼッタは髪からリボンを抜き取っていた。
刺繍の入った、殿下から贈られたあのリボンタイ。
(少し失礼しますね、殿下)
掌に密かに握り込む。引きずられるように角を二度曲がると、路地が狭くなり、壁の苔が増え、陽の入り方が変わる。
(南へ……王宮の方角)
「乗せろ」
黒い幌の馬車が待っている。扉が開いた。
押し込まれる直前、わざと足をもつれさせる。
「何してやがる!」
掴んでいた手が、一瞬だけ離れた。
視界の端に、壁際の鉄環が映る。荷留め用の金具。
死角になる角度を選び、リボンを二重に巻いて鉄環へ引っかける。結ぶ余裕はない。だが引っかかれば、簡単には落ちない。
次の瞬間、身体が馬車へ押し込まれ、扉が閉まった。
中は薄暗く、木材と油の匂いが濃い。
「手を縛れ」
両手首を前でまとめられ、縄が強く引かれる。息が詰まり、熱を持った痛みが走った。さらに締め上げられ、皮膚が擦れる。
「……っ」
足首も縛られ、目元に布が当てられ、後頭部で結ばれる。口元へ柔らかな布が押し当てられ、呼吸はできるが声は出せない。
馬車が動き出す。石畳の振動が床から伝わる。
(護衛を死なせることだけは避けられた)
縄が揺れに合わせて擦れ、手首にじわりと温かいものが広がる。
そのとき――胸の奥が微かに熱を帯びた。
(……なに、これ)
痛みは消えない。しかし、どこか覚えのある熱を感じた。完全に断たれていない感覚がある。
(気のせい、よね)
前世の断片が胸をよぎる。
(あのとき、手を離したままだった)
冷たい感触と、最後まで見届けられなかった後悔。
だが今回は違う。自分が選んで、ここにいる。
(殿下は前に出なくていい)
王族が侍女のために危険へ踏み込むなど、あってはならない。それが正しい距離。
(……でも)
胸の奥がひりつくように軋む。
(来ないで)
怖いからではない。殿下が傷つく方が怖い。
(来ちゃダメ)
それでも、心のどこかで確信している。
(必ず辿ってくださる)
縄が皮膚に食い込み、揺れる振動が続く。
それでも、ロゼッタの心は折れなかった。
まだ名づけない感情を抱えたまま、馬車は王宮の方角へと走っていった。
◇ ◇ ◇
――その頃の離宮。
執務室で報告を受けていたルチアーノの指先が、不意に止まった。
胸元の奥で、魔力が微かに揺らぐ。
一瞬の衝撃ではない。途切れずに返ってくる、継続する痛みの反応。
「……ロゼッタが傷を負った」
低い声に、ニコラスが即座に顔を上げる。
「殿下?」
「転倒ではない。……出血が、続いている」
張り詰めた空気の中、ルチアーノは静かに立ち上がった。
「位置を追う」
声は冷静で乱れはない。
その奥に、揺るがぬ決意だけがあった。




