42 朝の温度と、消えない名前
ロゼッタが目を覚ましたとき、最初に感じたのは、手のひらに重なる体温だった。
薄く差し込む朝の光が、窓辺のカーテン越しに揺れている。意識がはっきりするにつれて、自分の指が誰かの指に絡んでいることに気づいた。
心臓が跳ねる。昨夜きっちり並べたはずのクッションがずれていて、その向こうでルチアーノの顔が思ったより近い位置にあった。
「……殿下?」
思わず声が小さくなる。
自分の手が、彼の手を強く握っている。慌てて離そうとすると、軽く握り返された。
「起きたか」
落ち着いた声。その平静さが、かえって動揺を深める。
「も、申し訳ございません……!」
慌てて指をほどく。毛布も乱れている。昨夜作った線は、ほとんど意味を失っていた。
夢を見ていた気がする。
波の音と、瞳に映る自分の姿。走る足音と、焦る呼吸。
けれど内容までは思い出せない。
「何か……失礼なことを、申しませんでしたか?」
恐る恐る尋ねると、海のように青い瞳がこちらを向く。焦点は合わない。それでも、視線を受けている気がする。
「いや」
短い返答はルチアーノらしいが、叱ってくれた方が、まだ落ち着けたかもしれない。
「悪い夢を見ていたようだった」
それ以上は言わない。余計に、胸が落ち着かなくなる。
波の音は朝になっても続いている。その規則が、昨夜の温もりを呼び起こした。
立ち上がろうとしたとき、ルチアーノの指が動いた。
自分が離したはずの手首を、再び探るように触れられる。
「……まだ、冷えている」
低い声が、近さを改めて思い知らせた。
波の音が窓の外で続いている。朝の光が、カーテン越しに柔らかく揺れる。
「いえ、平気です」
言いながら、なぜかルチアーノの顔が見られない。
昨夜、自分が何を口にしたのか思い出せないまま、指先に残る温度だけが妙に鮮明だった。
「眠れましたか」
何気ない問いかけのつもりだった。
だが、返事までの沈黙が、思いのほか長く感じられる。
「……あまり」
短い答えに、呼吸が一瞬浅くなる。
(私のせい……?)
尋ねる勇気はない。
クッションは横にずれている。毛布の境界も曖昧になっている。
夜の間に、自分がどれだけ彼に寄っていたのかを想像すると、頬が熱を帯びた。
波の音が、規則正しく寄せては返す。
その音に紛れて、もう一度、彼の指が自分の手の甲に触れた。
「……海は、どうだった」
突然の問いは、昨夜ではなく、昼間のことを尋ねられているのだと気づく。
「……とても、綺麗でした」
視線を上げる。
「殿下の瞳の色と、よく似ていました」
言ってから、はっとする。
青い瞳が、こちらを向いている。自分の姿はそこに映っているのに、彼には見えていない。
胸がまた、静かに波打つ。
「そうか」
それだけの返事だったが、その声音には、昨夜とは違う柔らかさがあった。
ロゼッタは慌てて立ち上がる。
「朝食の確認をしてまいります」
距離を取りながらも、ルチアーノの気配は消えずに感じる。
背を向けた瞬間、微かに声が届いた。
「ロゼッタ」
足が止まる。
ほんのわずかに、呼吸が近づく。
「今度、私の名を呼んでみるか」
軽い調子に聞こえるが、冗談ではないことが伝わった。
心臓が強く打つ。
「……殿下」
それ以外の呼び方を、まだ知らない。
波の音は、まだ続いている。
夜の余韻も、指先の温度も、簡単には消えてくれなかった。
◇ ◇ ◇
ルチアーノが離宮へ戻った翌日、執務室の空気はいつもと変わらぬように保たれていた。
ニコラスが報告を終えたあと、机を挟んで向かい合う殿下の表情を窺うと、ほんの少しだけ強張っている。
「ニコラス」
「はい」
ルチアーノは呼吸を整えてから、端的に言い切った。
「ロゼッタの身辺を調べろ」
理由は添えられない。
「過去の交友関係。特に男」
そこで一拍置く。
「『シオン』という名に心当たりがある者がいないかも」
ニコラスは声色を変えずに応じた。
「承知いたしました」
感情を挟まず、まずは事実を集める。
数日後、ニコラスは報告を手に戻った。
「該当者は確認できませんでした。ロゼッタ嬢の周辺に『シオン』という名の人物は存在しません」
淡々と報告を続ける。
「また、直系の近親者に、視力を失った者は確認できませんでした」
室内に沈黙が落ちる。ルチアーノの呼吸がわずかに揺れた。
「……そうか」
それだけを告げる。安堵か、それとも別の感情か。自分でも判別がつかない。
だが、報告はそれで終わりではなかった。
「もう一点ございます」
ニコラスは視線を落としたまま言葉を続ける。
「北方の流通経路を洗い直したところ、不自然な資金の動きが確認されました。闇魔法関連の素材が、王都近辺へ流れている可能性があります」
その一言で、空気が張りつめた。
「詳細を話せ」
声音が低くなる。
「現在、ジャミルに追わせております。痕跡は新しいものです」
海の夜の余韻は、そこで完全に断ち切られた。
名前は見つからなかった。だが、痕跡は消えていない。
波は遠のき、代わりに別の不穏が足元へ迫っていた。




