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盲目王子の専属侍女── 一歩先を導く侍女と追放王子の逆転劇  作者: チャーコ


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41 同じ寝台の遠い距離

 宿の扉が閉まると、外の波音が一枚の壁を隔てた向こうへ退いた。その代わり、室内の静けさが輪郭を持つ。


 中央の寝台は広い。十分な幅がある。二人で横になっても余裕があるだろう。

 それでも、ロゼッタの喉はわずかに渇いた。


(踏み越えない方)


 ジャミルの言葉が、まだ耳の奥に残っている。

 守る側であって、踏み越える側ではない。殿下はそういう方だ。


 だからこそ。

 だからこそ、自分が線を引かなければならない。


「……仕切りを置きます」


 ロゼッタは一度目を伏せ、それから寝台へ近づいた。

 宿のクッションをいくつか抱え上げ、寝台の中央へ並べる。隙間ができないよう、丁寧に押し込む。


 物理的な境界線。目に見える距離。

 先ほどまで疑いもしなかった未来を、自分の手で遠ざけているような気がした。


 毛布も左右に分ける。


「右が殿下の側です。私は、左側を使います」


 線を作り、侍女としての立場を形で示す。


「……それでいい」


 落ち着いた声が返る。

 その声音は、昼間と変わらない。海辺で波を受け止めたときと同じ、揺れのない声。


 ロゼッタは殿下に先に浴室を譲った。扉が閉まる音のあと、水の流れる気配が始まる。


 あとから湯に浸かりながらも、胸の内側が落ち着かない。昼間の波の感触が、まだ足裏に残っている。


 殿下の美しい横顔が、夕日を受けて染まっていた光景も脳裏から離れない。

 見てほしい、と願ってしまった自分の心も。


(侍女として。侍女として)


 何度も自分に言い聞かせながら、湯を浴びる。それなのに、胸のどこかが熱い。

 宿の洗髪料は、いつもの石鹸とは違う甘い花の香りがした。慣れない香りをまとったまま、寝台へ戻る。


「おやすみなさい、殿下」

「……ああ。おやすみ」


 灯りを落とすと、波の音が窓の外で一定の間隔を刻み始める。

 寄せて、引いて、また寄せる。


 隣には、確かに気配がある。

 触れてはいない。クッションで区切られている。距離はあるはずだ。

 それなのに――。


(近い……)


 昼間、隣に立つ未来を疑わなかった。

 今は、同じ寝台にいる。


 近いのに、遠い。

 ロゼッタは目を閉じた。

 眠ろうとするほど、意識は冴えていく。


 波音に身を預ければ眠れるはずだ。そう言い聞かせて、ロゼッタは毛布の端をぎゅっと握った。


 ◇ ◇ ◇


 浴室の水音が止んで、扉が開く。甘い花の香りが、静かに室内へ広がった。

 いつもの石鹸と柑橘とは違う匂い。その違いが、やけに鮮明にわかる。


(気にするな)


 そう思っても、香りを勝手に拾ってしまう。


「おやすみなさい、殿下」

「……ああ」


 灯りを消す音のあと、波の音が規則正しく続く。

 寄せて、引いて、寄せて、引いて。


 本来なら心を鎮めるはずの反復が、今夜は逆に意識を覚醒させる。隣にある衣擦れの音や、寝返りの微かな振動を、どうしても数えてしまう。


 クッションで区切られ、触れてはいないはずなのに、それでも距離が近すぎると感じてしまう。


(……私ばかり意識している)


 きっと彼女は眠っている。昼間あれだけはしゃいでいたのだから、疲れているはずだ。


 波が一度、強く打ち寄せる。

 その直後、隣の気配が乱れた。


「……シオン……」


 ロゼッタの唇からまろび出た吐息混じりの声に、ルチアーノの心が冷たくなる。


(名前……?)


「シオン、待って……。危ないから、私が先に……!」


 切迫した響きが、部屋の中に広がる。


 クッションの向こうから、手が伸びてきた。何かを掴もうとするように、必死に。


 反射的に、その手を取っていた。

 華奢な指が、強く握り返す。夢の中の相手ではない。確かに、今ここにいる自分を掴んでいる。


「……ごめんね」


 不意にルチアーノを掴む手が緩んだ。しかし彼女の掠れた声が、胸を貫く。


(誰だ……? 誰に謝っている?)


 その謝罪は自分に向けられていない。

 別の名を呼び、別の相手に向けられた言葉だ。


 ルチアーノは名を呼ばれたことがない。


 自分はいつも呼ぶ側で、彼女の口から自分の名が出たことは一度もない。ロゼッタの口から出るのは、いつも「殿下」だった。 


 胸の奥で、何かが鈍く膨らむ。

 羨望とも、怒りとも違う。ただ、熱い。


(私が……呼ばれたわけではない)


 彼女は夢の中でさえ、自分の名を呼ばない。それでも、呼ばれたいと思ってしまう。


 握った手を離すことができない。

 夢の中で別の名を呼びながら、それでもこの温度は自分を掴んでいる。

 近いのに、遠い。


 波の音が、一定の間隔で続く。

 寄せて、引いて、また寄せる。


 眠れぬまま、夜は深まっていった。

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