40 波の音と、海色の瞳
馬車を降りた瞬間、空気が変わった。
塩を含んだ湿り気が風に混じり、肌を撫でていく。王都の石や木とは違う、どこまでも広がっていく気配。
「殿下、砂浜まで少しあります」
ロゼッタの声が、いつもより高い。
足元が石から柔らかい地面へ変わる。踏みしめると、さらさらと粒が崩れる音が返る。
「靴を脱いだ方が、感触がわかりやすいかもしれません」
少し迷うような間のあと、ロゼッタが続けた。
「私も、脱ぎます」
布が擦れる音。靴底が地面に置かれる音。
ルチアーノは杖で足元を確かめ、ゆっくりと靴を脱いだ。足裏に砂が触れる。細かな粒が指の間へ入り込み、思ったよりも温かい。
「……柔らかいな」
「はい。乾いたところはさらさらしていて、波の近くは少し重いです」
説明の声が弾んでいる。
波の音が近づき、次の瞬間、冷たい水が足首を包んだ。
さらりと触れて、引いていく。そのとき、足先の砂が一緒に流れ、足裏が崩れる。
思わず身体が揺れた。
「殿下?」
ロゼッタがすぐ近くへ寄り、腕に軽く触れる。
「問題ない」
そう答えながら、次の波を待つ。
寄せて、包み、さらっていく。力は強すぎないが、確かに足元を奪う。
「引くときが、思ったより強い」
「はい、くすぐったくて……私も少し、持っていかれました」
小さく笑う声。
風が吹き、ロゼッタの衣が揺れる。彼女が周囲を見回しているのが、気配でわかる。
「空がとても広いです。海とつながっていて、境目が曖昧で」
見えない世界を、言葉で渡してくる。
(……ロゼッタの目を通して)
海を感じるより先に、彼女の高揚が伝わる。
歩幅が軽くなる。波が来るたびに小さく笑いが混じる。
(はしゃいでいるな)
それが、妙に嬉しい。
「そろそろ夕日が、海に沈みそうです」
囁くような声が耳に届く。
「水面が赤くなっていて……波が揺れるたびに、色が崩れます」
想像の中に色が広がる。
見えなくなってから、世界は音や香り、触れた感触や重さ、風の向きで輪郭を持つようになった。
だが今は、それに彼女の声が加わる。
(初めてを、共有している)
義務でもなく、説明でもない。ただ、並んで感じている。
その実感に、鼓動が耳の奥で響いた。海のせいなのか、隣にいる彼女のせいなのか、区別がつかない。
◇ ◇ ◇
夕日は、海の上からゆっくりと沈みかけていた。
赤と橙が溶け合い、波が揺れるたびに光がほどける。
その光を受けて、ルチアーノの横顔が淡く染まっている。
金の髪が夕日を受けて柔らかく輝き、青い瞳がまっすぐ海を向いている。
その瞳の中に、夕焼けが映る。
そして――自分の姿も。海を背に立つ自分の影が、確かにそこにある。
(……映っているのに)
彼には、わからない。
その瞬間、遠い記憶がふと蘇る。
焦点の合わない目で、必死にこちらを向こうとしていた詩音の姿。
瞳の中に自分は映っているのに、彼自身にはそれが見えていなかった。
あのとき感じた、どうしようもない距離。誰にも話していない記憶。
それに触れた気がして、胸が締めつけられた。
波が寄せる。足首を包み、また引いていく。
「殿下」
「どうした」
青い瞳がこちらを向く。
目は合う。けれど、届いていない。
(……見てほしい)
そんなことを願う立場ではないのに。
今のこの顔を、この景色を。
そう思ってしまった自分に気づき、慌てて視線を海へ向けた。
「冷えてきましたね」
「戻るか」
殿下の返事に従い、波の音を背に宿へ向かう。砂が足裏に残り、潮の香りが衣に移っていた。
宿へ着くと、ジャミルが先に扉へ回り、確かめるように手をかけた。次いで、中の様子を窺ってから入っていく。
「どうぞ」
促され、ロゼッタは殿下の半歩前についた。
客室は思ったより広い。衝立があり、足元には折り畳みの簡易寝具が立てかけてある。家族連れを想定した造りなのだろう。中央にある寝台は、二人でも余るほど大きい。
(簡易寝具があるなら……)
内心で、ひとつ息をついた。
だが、ジャミルが部屋の端まで歩き、窓の位置と扉の距離を確かめるように視線を走らせる。そして淡々と言った。
「今夜は、お二人でこちらの寝台をお使いください」
「え……殿下と、同じ寝台ですか?」
ロゼッタは驚き、声が上擦る。
ジャミルは表情を変えないまま、短く頷いた。
「はい。ここが最も守りやすい配置です。窓も扉も、目が届きます」
視線を追う。確かに部屋の隅は少なく、物陰もない。襲われるなら正面からになる。
「簡易寝具は窓側へ寄ります。万が一の際、分断されます」
理屈は理解できる。けれど、理解できることと、心が落ち着くことは別だった。
(落ち着いて。私は侍女で、殿下は……)
言い聞かせようとして、言葉が途切れる。
「私は、簡易寝具を使います。窓側でなければ……」
咄嗟にロゼッタの線引きが口から出た。殿下がわずかに顔を向ける。
「それはできない」
声は低く、迷いがない。
「女性を硬い寝具に寝かせるわけにはいかない。それなら私が使う」
「で、でも……殿下こそ」
続けようとして、息が詰まった。殿下の寝台を当然のように奪うわけにもいかない。けれど、同じ寝台にいる自分を想像しただけで頬が熱を帯びる。
ジャミルが一歩だけ距離を取り、殿下へ向き直った。
「殿下。こちらが最善です」
短い言葉のあと、躊躇いなく続ける。
「殿下は理性を失われる方ではありません」
一拍置いた間に、ジャミルはロゼッタへ向けて言う。
「守る側であって、踏み越える側ではございませんから」
胸の奥が、じわりと揺れた。
自分がルチアーノに守られる側として語られたことに気づいてしまう。
殿下は何も言わなかった。ただ、呼吸が整う気配がして、そのあと低く答える。
「……問題ない」
落ち着いた声は、いつも通りだった。
ほんの数刻前まで、殿下の隣にいる未来を疑わなかったのに。
(問題があるのは、私だけでは……?)
視線がどうしても大きな寝台へ吸い寄せられる。十分に広い。広いからこそ、かえって意識してしまう。
窓の外では、波が寄せては返す。一定の間隔なのに、心が落ち着かない。
ひとつの寝台で、殿下と一夜を。
頭の中で、波より大きな音が鳴り始めていた。




