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盲目王子の専属侍女── 一歩先を導く侍女と追放王子の逆転劇  作者: チャーコ


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39 海の音を聞きたい

 執務室には、ニコラスの声が穏やかに流れていた。


「以上が北方からの報告です。輸送路は安定し、鉱山の稼働も回復傾向にあります。現時点で大きな懸念は見当たりません」


 報告が終わると、室内に静かな間が生まれた。


 ルチアーノは机に置いた杖の柄を、指先でゆっくりとなぞっている。蛇の意匠の凹凸を確かめるその動きは、思考をまとめるときの癖だとニコラスは知っていた。


「……ニコラス」

「はい」

「南へ行けば、海があるな」


 唐突ではあったが、衝動の響きはない。


「ございます」


 ニコラスは声音を変えずに応じる。


「音を、聞いてみたい」


 その先を待ちながら、持っていたペンを静かに机へ置いた。


「波が寄せて、引いていく。その繰り返しを耳で確かめたい。潮の香りも、どのようなものか知りたい。強いのか、穏やかなのか」


 言葉を選ぶように、いったん息が止まる。


「砂の上に立ったときの感触や、波が足をさらっていく力も感じてみたい。書物で読んだことしか知らない」


 視覚ではなく、音や香り、風や温度、触れたときの圧や重さ。そうしたもので海を組み立てようとしていることが伝わる。


「見えなくなってから、世界は視覚以外のもので出来ているとわかった。音や香り、風の流れ、床の硬さ、体温の違い……それらが形を教えてくれる」


 淡々と語る中に、隠しきれない本音が混じる。


「ロゼッタが、海を見たことがないと言っていた」


 そこで初めて、顔がニコラスの方へ向いた。


「ならば、並んで確かめてもいいのではないかと思った」


 ニコラスは息をつく。


(止めるのは簡単です。ですが、その後の方が面倒ですね)


 闇魔法の痕跡は完全には消えていない。王宮の視線も穏やかとは言い難い。それでも、ここで止めれば、殿下はまた感情を奥へ押し込めるだろう。


「一泊であれば可能です。宿は警護しやすい場所を手配いたします。移動経路も事前に確認します」


 言いながら、条件を重ねていく。


「護衛はジャミルを含めます。段取りがつけば、実行できます」


 ルチアーノの肩から力が抜ける。


「頼む」


 押しつけではなく、小さな願いだった。


(海は音と香りと感触の世界。そして――)


 ニコラスは心の中で言葉を続ける。


(初めてを、共有したいのですね)


 ◇ ◇ ◇


「海……ですか?」


 ロゼッタは思わず聞き返していた。


 回廊に差し込む光の中で、殿下の言葉を反芻する。


「音だけでなく、潮の香りや、砂の感触も確かめたい」


 そう告げられた瞬間、胸の内が弾む。


(覚えていてくださった)


 以前、何気なく話した言葉を拾い上げ、きちんと覚えている。その事実が何より嬉しい。


「波に足を浸したとき、押し寄せる感触や、引いていく力も知りたい」


 どこか真面目で、不器用な言い方だった。見えない海を、丁寧に想像しながら言葉にしている。

 その姿にロゼッタの心が温かくなる。


「私も、海に行ったことがありません」


 自然に言葉がこぼれる。


 北方の故郷には山と平原が広がり、川や湖はあっても、波はなかった。水面は落ち着いていて、寄せては返すという動きとは無縁だった。


「音で、共有できるかもしれない」


 その一言に、鼓動が早まる。

 殿下の隣にいる未来を、疑いもなく思い描いている自分がいた。


 視力が戻らないままの殿下と、まだ海を知らない自分。どちらも初めての体験を、隣で確かめ合う。


 砂に裸足で立つ自分を想像する。足裏に細かな粒が触れ、波が寄せた瞬間に裾が濡れ、思わず笑ってしまうかもしれない。潮の香りが風に混じり、髪が揺れる。


 そのすべての隣に、殿下が立っている光景を、思わず思い描いてしまう。


「……嬉しいです」


 声が弾んだことに気づき、頬が熱くなる。


「でも、よろしいのでしょうか。王宮の視線もございますし」


 侍女としての線を思い出し、言葉を添える。


「危険は承知している。警護は整える」


 返答は低く、揺れなかった。迷いがないことだけは、はっきり伝わる。


(殿下が、自ら望んだ)


 義務でもなく、政治でもなく、自分の意思で。

 胸の内に、新しい感情が芽生えはじめる。


(……一緒に、初めてを)


 砂の音、波の力、潮の香り。すべてを並んで確かめる未来が、はっきりと形を持つ。


「はい。行きたいです」


 はっきりと答えたあと、現実が追いつく。


「……一泊、ですよね」


 声が自然と控えめになる。


「その予定だ」


 宿の事情、警護の都合。合理的な理由が重なる。


(侍女として、きちんと務めなければ)


 胸の高鳴りを押さえるように、言葉を選ぶ。


「私は侍女ですから、殿下のお傍におります」


 いつもの言い方を重ねた。

 初めての海を、殿下と並んで聞ける。それだけで、気持ちが少しだけ軽くなる。


 海はまだ遠い。けれど、その気配はもう胸の奥に触れていた。

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