38 託されたプラチナの音色
夕刻の回廊は、今日も同じ色をしていた。
石壁に沿って流れる風の向きも、遠くの足音の反響も、いつもと変わらない。変わっているのは、ロゼッタの腕の中にある重みだけだった。
総プラチナ製のアウレア笛。
箱を開ける前から、銀とは違うと感じる。持ち上げた瞬間、密度が腕へ沈み込む。冷えた白金の質量が、腕へじわりと伝わる。
(……重い)
銀笛と同じ大きさのはずなのに、下へ引かれる。重さが、腕を下へ下へと引く。
留め金を外し、蓋を開ける。
白金の管体は、夕暮れを受けて静かに輝いた。全体に施された細密な彫刻は、近くで見るほどに精巧で、ただの楽器とは思えない佇まいだった。
けれど、指でそっとなぞると、その彫刻は装飾であると同時に、微かな凹凸を持つ滑り止めにもなっていることがわかる。
(綺麗……だけど、持ちやすい)
見せるための美ではない。使うために作られた笛だ。
ロゼッタは、深く息を吸った。
思い出すのは、殿下の言葉。
――音がなくなって、落ち着かない。
――あなたの音が、基準だった。
あのときの声は、いつもよりわずかに低かった。落ち着いているようで、けれど、どこか探しているような響き。
(基準……)
殿下は見えない。
それでも、回廊を歩く。杖の先で床を確かめ、反響を読み取り、距離を測る。
歩行訓練では、転びかけても声を荒らげない。
政務では、資料を読み上げさせ、誰よりも早く要点を掴む。
見えないまま、それでも止まらない。
その人が「音がないと落ち着かない」と言った。
(私の音が……)
胸の奥が静かに熱くなる。
自分の笛が、あの人の世界を整えていた。
――殿下が吹いてほしいと、ロゼッタに望んだのだから。
(私の音色が、どうか殿下に届きますように)
構えると、銀笛よりも腕に負担がかかる。息を入れる角度がわずかに違う。キィの反応も重い。
最初の音は、少しだけ揺れた。自分でもわかるほど硬い。
(だめ、落ち着いて)
焦れば乱れる。殿下はいつも、焦らない。
見えない段差の前で、一拍置くように。
呼吸を整える。肩の力を抜き、重さを腕で支えるのではなく、身体全体で受け止める。
澄んだ響きが、回廊の空間を満たした。銀の温もりとは違う。けれど、揺れず、迷わず、まっすぐに進む。どこまでも澄み渡り、遠くへ届く響き。
(殿下のような音……)
誇示せず、声を荒らげない。それでも、確かに前へ進む。
重さは消えない。けれど、その重さを受け止められることが、今は誇らしかった。
殿下が歩くように。殿下が政務に向き合うように。
音だけは、前へ進ませる。
呼吸を整え、姿勢を正し、覚悟を決める。
腕が震えそうになりながら、ロゼッタは吹き続けた。
殿下の在り方に、少しでも近づけるように。自分も逃げずに立ち向かう。
◇ ◇ ◇
回廊の端で、ルチアーノはその音を聞いていた。
銀ではないと、すぐにわかる。音の立ち上がりが違う。息の入り方も、わずかにぎこちない。
(母の笛だ)
思考が、自然とそこへ向かう。
肖像画の中のソフィア。触れたことのない指。聞いたことのない音。
もし母が吹けば、こういう響きだったのだろうか。だが――母を想うよりも先に、彼女の息遣いを探している自分に気づく。それを否定する気には、なれなかった。
音は澄んでいて、乱れも少ない。それなのに落ち着かない。
代わりに浮かぶのは、別の感情だった。
(重さに、抗っているな)
息のわずかな乱れ。キィを押さえる指の力の入り方。重さに抗っている気配。
見えなくてもわかる。あの笛は、彼女には重すぎる。
「……重いだろう」
自然と声をかけた。
音が途切れる。数拍ののちに返答があった。
「はい」
少しだけ息が上がった声。
「でも、大丈夫です」
その言葉に、思わず口元がわずかに綻ぶ。
(それを、大丈夫と言うのか)
「……無理をするな」
「無理ではありません」
(無理をしているのに……)
自分が渡したのだと、わかっている。だが、それでも。
「やはり、あなたが持っていてほしい。……私のために」
ぽつりと小さく落ちた本音は、懸命に吹く彼女に届いていない。
ルチアーノは、まっすぐなプラチナの音を聞きながら、静かに思う。
(やはり……あなたの音は、基準だ)
澄みすぎた響きの向こうに、いつもの柔らかな音色を探しながら。




