37 形見のアウレア笛
夜は思った以上に静かだった。
離宮で静寂は珍しくないはずなのに、今日に限っては、どこか空洞のように感じられた。
ルチアーノは回廊の定位置に立ち、杖を軽く床へ当てる。石畳の反響は正確で、距離も段差も狂いはない。世界はきちんとそこにある。
それでも、胸の奥が落ち着かない。
(……足りない)
音はある。風も、人の気配も、衣擦れも。
ただ、この時間になると必ず届いていたはずの横笛の音だけがない。
ロゼッタのアウレア笛。
揺れない音、誇示しない音、深く一定に流れる呼吸。その音があると、考えずとも「ここに立っている」とわかった。空間が整理され、自分の位置が自然と定まった。
今はそれがない。
わかっている。点検に出したのだと、彼女はきちんと説明した。一ヶ月、それだけの期間だ。
だが、理解と感情は別だった。
自室へ帰ると、机の引き出しにある箱へ無意識に手が伸びる。
総プラチナ製のアウレア笛――母ソフィア前王妃の形見。
箱を開けずとも、存在感は伝わる。白金の重みが、空気を少しだけ押し下げる。触れれば、銀とは明らかに違う密度が指に残る。全体に施された彫刻は、指先でなぞるだけでも息を呑むほど繊細だった。
この笛の音色を、彼は一度も聴いていない。
持ち主だった母は亡くなり、その音を知らないからだ。
記憶にあるのは肖像画だけ。澄んだ青の瞳と柔らかな金髪。音のない、絵画の中だけの母。
(……ならば)
箱を持ち上げる。衝動だった。
「ロゼッタを呼べ」
◇ ◇ ◇
「お呼びでしょうか、殿下」
いつもの輪郭のはっきりした発音。少しだけ弾む気配はロゼッタのものだ。
その声を聞いた瞬間、心がわずかに緩む。緩んでしまうことが、また悔しい。
「こちらへ」
箱を示すと、ロゼッタは素直に近づいてきた。距離はいつも通り、近すぎず、遠すぎない。
留め金を外して蓋を開けると、銀とは明らかに違う光が、室内の灯りを受けて静かに輝いた。
ロゼッタの呼吸が、ほんのわずかに止まった。平静さを装っているが、珍しく衣擦れの音が大きく響く。
「殿下、これは……」
「母の――形見だ」
ルチアーノの声は落ち着いているが、ロゼッタは完全に固まった。呼吸が浅い。
「預かってほしい」
彼女の戸惑いが手に取るようにわかる。だが、引く気はなかった。
「音がなくなって、落ち着かない」
それは言い訳のようで、半分は本音だった。
「あなたの音が、基準だった」
微かに息が乱れる。
「……あなたがいないと、落ち着かない」
そこまで言ってから、言い過ぎたと自覚する。
だが止まらなかった。
「今はそれがない。……ならば、これをあなたに吹いてほしい」
通っていない理屈だと、自分でもわかっている。しかし、彼女の音が消えた空白を、何かで埋めたかった。
ロゼッタはしばらく黙っていた。その沈黙が、やけに長い。
「殿下」
やがて、静かに口を開く。
「一時的に、預かるだけです」
その言葉は柔らかいが、線を引いていた。
「点検が終わるまで。手元にない間だけ」
「……どういう意味だ」
問いながら、すでに理解している。
「殿下のものは、殿下のままでいてください」
胸が細く軋んだ。
彼女は受け取る。だが、所有はしない。
形見であることも、笛が国宝級であることも、すべて理解した上で、それでも自分の立場を崩さない。
(……侍女、か)
彼女が自ら引いた線が、やけに眩しい。
「預かるだけ、か」
「はい。必ずお返しします」
必ず返す。その前提が、胸に刺さる。
渡したのは自分だ。だが、返されることを前提にされると、妙に悔しい。
(……返させなければいい)
一瞬だけ、そんな子どもじみた考えがよぎるが、口には出さない。
箱をそっと彼女の腕へ移す。
彼女がそれを抱える姿を、見たいと思う自分がいる。見えないのに。
「大切に、お預かりいたします」
その声は、いつも以上に誠実だった。誠実すぎて、余計に切ない。
◇ ◇ ◇
(完全に求婚未遂です)
廊下の角から状況を把握していたニコラス・サルヴィは、内心で静かに結論を下した。
王族文化において、母の形見を託すという行為の意味は明白だ。それが国家創生期から伝わる総プラチナ製アウレア笛であれば、なおさら。
止めるべきか。いいや、止めない。
止めれば、殿下は意地になる。止めなければ、ロゼッタが線を引く。
(そして、今は後者が勝ちました)
彼女は受け取り、しかし距離を保った。
預かるだけ。返す前提。
(見事です、ロゼッタ嬢)
一方で、殿下の沈黙も理解している。
(返させない方法を、すでに考え始めている顔ですね)
静かな夜は何も変わらない。
だが、笛の重みは移動した。音の代わりに、想いの重さが。
それを言葉にできるのは、観測者だけだった。




