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盲目王子の専属侍女── 一歩先を導く侍女と追放王子の逆転劇  作者: チャーコ


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36 笛を預けた日

 離宮の門を出ると、空気が少しだけ変わる。

 王都の中心ほど騒がしくはないが、離宮の静けさと比べれば、人の気配も音も多い。荷車の軋む音、石畳を歩く足音、遠くで交わされる話し声。ロゼッタはそれらを意識の端で受け取りながら、細い通りを歩いていた。


 腕に抱えているのは、いつものケースだった。

 総銀製のアウレア笛を収めた、内張りの厚い楽器用の箱。


(そろそろね)


 前回の調整から四ヶ月あまり。

 音が崩れるほどではないが、キィの反応に小さな引っかかりが出始めている。毎日吹いているからこそ気づく違和感だった。


 通りの奥まった場所に、控えめな看板がかかっている。

 目立つ装飾も呼び込みもないが、知っている人間だけが迷わず辿り着く場所だ。


 ――グラーフ工房。


 ここを教えてくれたのは、ステラだった。

 ステラの姉たちが以前、結婚式用の髪飾りを作ってもらったことがあり、その出来がとてもよかったという。繊細な細工だったが、派手さより使い心地を優先した仕上がりで、長時間つけても疲れなかったらしい。


 その後も、魔石式のコンロや湯沸かしを調整してもらい、「しっかりした確かな技術力がある」と聞いていた。


 だからロゼッタはここを選び、四ヶ月前の調整も満足のいくものだった。


 工房の扉を開けると、木と金属、そして微かに魔石の匂いが混じった空気が流れてくる。


「いらっしゃい」


 奥の作業台から、低く落ち着いた声がした。


 顔を上げたのは、五十を少し過ぎたくらいの技術工だった。視線の動きに無駄がなく、手元の作業を止めずに人の気配を正確に捉えるタイプだと、一目でわかる。


「今日は……アウレア笛だな」


 ケースに視線を向けただけで、そう言った。


「はい。調整をお願いしたくて」


 ロゼッタが差し出すと、男――エルネスト・グラーフは、慣れた手つきでケースごと受け取り、留め金を外した。


 銀の管体を光にかざし、接合部やキィを一つずつ確かめていく。指先が止まるたび、角度を変えて調子を見る。


「……ここと、ここだな」


 短く言って、接合部を示した。


「ほんのわずかだが、緩み始めている。音程も少しだけずれている」


 ロゼッタは黙って頷いた。


「今すぐ吹けなくなる状態じゃない。しかし、このまま使い続けると、笛の寿命に関わってくる」


 責める調子は一切ない。

 事実だけを、淡々と告げる声だった。


「どれくらい、かかりそうでしょうか」

「本当ならオーバーホールをした方が良い。ただ、費用と期間がかかるが、どうする?」


 エルネストは棚の方へ視線をやる。


「今、他の仕事が詰まっている。王宮関係が一件、生活補助具の調整が二件」


 少し考えてから、はっきりと言った。


「オーバーホールなら、一ヶ月預かりたい」


 一瞬、胸の奥がきゅっと縮む。


「……一ヶ月、ですね」

「長いか?」

「いえ。徹底的な点検が必要だとは思っていましたから」


 そう答えながら、心のどこかで、音のない夕方を思い浮かべてしまう。


「代わりの楽器は?」

「使いません」


 ロゼッタは、迷わず答えた。


「感覚がずれるので」

「そうか。それは個人の自由だ」


 エルネストは頷いて、笛を丁寧にケースごと棚の奥へしまう。


「……そういえば」


 ふと思い出したように言った。


「前に頼まれていた、紙に膨らみを作る器具。具合はどうだ」

「あ、はい。とても助かっています」


 ロゼッタの声が、少しだけ明るくなる。


「指先で読む文字を教えるのに、ちょうどよくて」

「使う人間が楽になるなら、それでいい。見えないからといって、諦める理由はない」


 エルネストの重みのある言葉に、ロゼッタは深く頷いた。


「身近な人が、とても助かっていて」

「そうか」


 それ以上、詮索はされなかった。


「一ヶ月後だ。終わったら知らせる」

「よろしくお願いします」


 工房を出ると、手元がひどく軽く感じられた。

 ケースも、笛も、もう腕の中にはない。


(……今日は、音がない)


 ロゼッタは、空虚な気持ちを抱いたまま、離宮への道を歩き出した。


(殿下、きっと落ち着かないでしょうね)


 ◇ ◇ ◇


 夕方になっても、音が聞こえなかった。

 ルチアーノがそれに気づいたのは、かなり遅れてからだった。


 離宮の回廊に立ち、杖で床を確かめながら、いつもの位置に来たところで、ふと違和感が胸を掠める。


(……静かだ)


 正確には、音はある。風の音、遠くの足音、衣擦れ。

 だが、欠けている。いつも、この時間になると聞こえてくるはずの、横笛の音がない。


「……あ」


 小さく声が漏れた。

 理由は、すぐに思い当たる。調整だ。ロゼッタが、そう言っていた。


(わかっている)


 必要なことだと理解している。楽器の調整を怠るわけにはいかない。

 それでも、呼吸がわずかに浅くなる。


 歩き出そうとして、足が止まった。

 杖の先で床を探る動作はいつも通りで、距離も、配置も、何一つ変わっていない。

 変わっていないのに、落ち着かない。


(……慣れすぎただけだ)


 そう言い聞かせても、胸の奥のざわつきは消えなかった。


 食事の時間になり、ロゼッタが声をかけてくる。


「殿下。少し、お知らせがあります」


 いつもと同じ声、距離も同じ。

 それなのに、耳が余計に敏感になる。


「……笛のことか」

「はい。この機会に徹底的な点検に出しました。一ヶ月ほど」


 短く、端的な説明だった。


「……そうか」


 それ以上、ルチアーノは何も言えなかった。

 わかっている。納得もしている。

 だが、食事のあと、部屋に戻ってからも落ち着かない。


 本来なら、笛の音で一日が終わるはずだった。

 今日は、何もない。

 椅子に腰掛け、杖を膝に置いたまま、しばらく動けずにいた。


(……こんなことで)


 自分に呆れる。

 見えなくなっても、ここまでやってきた。音が一つ欠けたくらいで、揺らぐはずがない。


 それなのに、胸の奥が妙に寒い。

 扉の向こうで、足音が止まる。


「殿下。失礼いたします」


 ニコラスの声だった。


「……何か」

「いいえ。ただ、笛を点検に出したと聞きましたので」


 余計なことを言わない声が、今はありがたかった。


「一ヶ月ですか」

「ああ」


 ルチアーノの返事に、ニコラスはそれ以上何も言わなかった。

 沈黙が、少しだけ続く。


「……殿下」


 ややあって、ニコラスが口を開く。


「慣れとは、恐ろしいものですね」


 その言葉に、ルチアーノは苦笑した。


「笑わないでくれ」

「笑ってはいません。事実です」


 静かな声だった。それが、妙に胸に刺さる。


(事実、か)


 ロゼッタがいないわけではない。ただ、音がないだけだ。

 それなのに、世界が少しだけ、頼りなく感じられる。


 夜が更けても、眠りは浅かった。

 耳が無意識に、存在しない音を探している。横笛の音を。彼女の息遣いを。


(……一ヶ月)


 思った以上に長い。

 この先、もっと長く、音のない時間が続いたら――。

 その想像を、無理やり振り払う。


(……一ヶ月くらい、待てるはずだ)


 そう言い聞かせながら、耳はまだ、彼女の澄んだ音色を探していた。

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