35 ロゼッタに近づく気配
離宮の朝は、今日も静かだった。
静かな分だけ、違う音はよく目立つ。
マリアは盆を抱え、裏方の回廊を歩いていた。石畳の反響、扉の開閉、誰かが立ち止まるときの間。離宮に来てから、そうした音に耳を澄ます癖は、いつの間にか身体に染みついている。
だからこそ、足音の混じり方が、いつもと違うことに気づいた。
(……迷ってる?)
忍び足でも、急ぎ足でもない。一定の速さで歩いているのに、曲がり角の手前で必ず一拍、間が空く。
――この離宮に、慣れていない人間の歩き方だった。
王宮から来た使い走りか、臨時の業者か。正規の用があって中に入っている以上、不審だと断じることはできない。マリアは足を止めず、盆を抱えたまま歩き続けた。
確証のない違和感で振り向くほど、未熟ではない。
配膳室に入ると、すでに下働きたちが揃っていた。仕事の手は止めず、低い声が交わされている。
「最近、ロゼッタさん、よく外に出てるよね」
「買い物でしょ。殿下の食事の」
「時間、だいたいいつも同じらしいよ」
マリアは、盆を置く手を止めなかった。
声の調子は軽く、悪意もない。けれど――聞こえてきた内容は、これまでと違っていた。
(……前は、違った)
これまで耳に入っていたのは「仕事が丁寧だ」とか「気が利く」といった評価だった。今は違う。
(時間や経路。一人かどうか)
誰がどう思っているかではなく、何時頃に、どこを通って、どう動いているか。
人柄ではなく、行動。評価ではなく、観察。
廊下へ戻ったとき、ふと背中に視線を感じた。見られているというより、位置を測られている感覚に近い。反射的に周囲を見回しても、そこには誰もいなかった。
ただ、離宮の外側――門の方角から、空気が張り詰めているのがわかった。
(……中だけじゃない)
朝に感じた足音とは、質が違う。
離宮の中で配置を確かめる人間と、外に立ったまま出入りを見ている人間。
(同じ対象を見てる)
見られているのは殿下ではなく、離宮そのものでもない。
(……ロゼッタさん)
マリアは、そこで初めて歩調を落とした。
だが、すぐに口に出すことはしない。「危ない」と言うには、まだ材料が足りない。
噂は噂だ。けれど、噂の向きが変わった事実だけは、頭の中に残す。
午後、マリアは用件があるふりをして執務室を訪れた。
「失礼します、ニコラス様」
「どうぞ」
中に入ると、マリアは一度だけ扉の外を確認した。足音はなく、気配もない。扉を閉めてから、ようやく声を潜めて報告する。
「少し、気になることがあります」
ニコラスは書類から視線を上げ、黙って続きを待った。
「今朝、離宮の中を歩き回っている、配置に慣れていない人がいました」
「中を、ですか」
「はい。正規の用がある人だと思います。ただ、建物の動線を覚えているような歩き方でした」
一度、区切ってから続ける。
「それとは別に、門の外や通りから、離宮の出入りを見ている人がいます。中には入っていません。誰が、いつ、外に出るかを見ています」
「……内部でも、同じ人物が話題になっているんですね」
「はい。離宮内で話題になっているのも、外出の時間帯と経路です。殿下ではありません。ロゼッタさんです」
一拍、沈黙が落ちる。
「評価ではなく、観察です。噂というより、確認に近いと思います」
マリアは、そこで言葉を切った。危険だとは言わない。判断は渡した。
「以上です」
一礼して執務室を出ながら、胸の奥に残る違和感を、マリアはまだ言葉にしなかった。
◇ ◇ ◇
マリアの報告を聞いた時点で、ニコラスの中では整理が終わっていた。
(……殿下ではない)
それが、最も重要だった。
盲目の第一王子を狙うなら、もっとわかりやすく動く。騒ぎを起こし、同情を集め、政治の場へ持ち込む。それが、これまで見てきたやり方だ。
ロゼッタは違う。
単独で外に出る。時間帯がほぼ一定で、経路も限られている。
(追える、と思われている)
殿下の生活は、すでに安定している。
北方の件も落ち着き、王宮の視線が、再び離宮に戻り始めていた。
崩せない場所が固まったとき、人は別の場所を探す。
ニコラスは机の上の図面に指を置いた。
門から通りまでの距離。ロゼッタの外出経路。
(警護がついていないように見える。だから、隙があると思われる)
結論は早かった。
「ジャミル」
名を呼ぶと、隣室から黒髪の男が音もなく現れた。
「外周を厚くして、中には入れるな」
「了解」
「目立たず、威圧もしない。ただ、近づけさせないように」
「わかった」
排除はしない。まだだ。
相手が様子見の段階であるうちは、こちらも動かしすぎない。
そして――ロゼッタには、何も伝えない。
彼女は、危険を察すると行動を変える。
時間をずらし、道を変え、人を頼る。
それは正しい。だが、今はまずい。行動の変化は、「気づかれた」という合図になる。
(今はこちらが主導権を持っている)
執務室に一人残り、ニコラスは息を整えた。
感情は動かない。だが、判断ははっきりしている。
「……これは、危ないですね」
その頃、回廊では杖の音が一定の間隔で響いていた。
ロゼッタはいつも通り、ルチアーノの半歩前を歩いている。
その距離は、まだ何も知らない二人にとって、当たり前の位置だった。
生活は、まだ崩れていない。
だからこそ――危ない。




