34 目を合わせないダンス練習
離宮の執務室で、ルチアーノの落ち着いた声が、静かな室内に広がった。
「……目が見えなくなっても、社交は必要だ」
ニコラス・サルヴィは書類に走らせていたペンを止め、ゆっくりと顔を上げた。
「舞踏会は王族の義務だ。視覚に頼らずとも、最低限の動作は身につけておく必要がある」
感情を抑え、理屈として正しい言葉だった。
正論であり、反論の余地はない。
「確かに。では、相手役を手配いたしましょうか」
そう口にしかけた瞬間、ニコラスはわずかに言葉を止めた。
止めた理由を、あえて深くは考えない。考えれば、余計なものまで見えてしまうからだ。
(いえ、考えなくても見えていますが)
視力を失ってからというもの、殿下の世界は整理され、不要な者は遠ざけられ、必要な者だけが近くに置かれるようになった。
生活は安定している。判断も揺らいではいない。ただし――。
(必要な者が一人、近すぎる)
社交の練習において、もっとも適していて、もっとも距離の管理が難しい相手が、目の前にいる。
それを殿下も、そして当人も、まったく自覚していない。
(……手配などという言葉を口に出す前に、立候補が飛んでくる未来まで見えていますよ)
「はい!」
明るい声が、まるで合図を待っていたかのように響いた。
「私でよろしければ、お相手いたします!」
ロゼッタだった。
間髪を容れず、迷いもなく、手をまっすぐに挙げている。
(ええ、そうでしょうね。あなたが手を挙げない未来は存在しません)
ただ、専属侍女として役に立ちたい一心に見えるその姿が、なおさら厄介だった。
ステラ・バルトーネが、横で首を傾げる。
「……これ、立候補がアリなんですか?」
ロゼッタは不思議そうに瞬きをした。
「いけないかしら?」
「いけなくはないと思うけど……」
ステラは言葉を濁し、ニコラスを見る。
ニコラスは表情を変えなかった。
見えない相手に慣れていること。
子爵令嬢として舞踏の教養があること。
距離の取り方、姿勢、体幹。
条件としては、揃いすぎている。
(揃いすぎているからこそ、問題なのですが)
「……構わない」
ルチアーノが端的に言った。
声は落ち着いているが、ほんのわずかに硬さが混じる。
(ええ。そう答えるしかないですよね)
「では、ダンスホールを使いましょう」
ニコラスはそう告げ、用意を始めた。
◇ ◇ ◇
離宮のダンスホールは、昼でも静かだった。
高い天井が音を柔らかく受け止め、足音は軽く反響する。
ロゼッタは淡いピンク色のドレスに着替えていた。
動きやすく、裾が広がりすぎない仕立てで、立ち姿には令嬢としての気品が自然に宿っている。
ルチアーノは正装で立ち、杖を壁際に預け、背筋を伸ばした。
濃い灰色の圧迫感のある視界が、相変わらず広がっている。
だが、それ以外の感覚は澄んでいた。
ステラがピアノに向かう。
「テンポはゆっくりめでよろしいですか?」
「お願いします」
穏やかな旋律が流れ始める。
ロゼッタが一歩前へ出た。
「では、こちらへ」
輪郭のはっきりした声。
石鹸に微かな柑橘が混ざった香りが、ふわりと届く。
ルチアーノは手を伸ばす。触れた瞬間、指先に伝わるのは柔らかく温かな掌だった。
その温度は、自分よりわずかに高い。
(……近い)
一拍、呼吸が乱れた。
一歩、二歩。
足運びは正確だ。
だが、彼女の身体の重心移動は王国式より浅く、直線的で、無駄がない。
(帝国式……)
踏み込みの角度が違う。
ルチアーノの足が、少しだけ遅れた。
「……ロゼッタ」
「はい?」
「その足運びは……」
「癖でしょうか。母に教わりました」
言いながら、ルチアーノの背へ添えた手に、ほんの少し力が込められる。
その瞬間、柔らかな身体の感触が、布越しに伝わった。
「殿下は……お身体の軸が安定していらっしゃるので、私も安心して踊れます」
悪意も含みもなく、ただ事実を述べただけの声音。
(……軸、か)
自分の胸板に触れていたロゼッタの手を、過剰に意識してしまう。
彼女が回転すると、ドレスの布が舞う音が微かに届く。
弾んだ息遣いを、間近で感じた。
(落ち着け)
呼吸を整えようとするが、彼女の香りが思考の邪魔をする。
ダンスは滞りなく終わった。
足が、少し重い。
久しぶりに踊ったせいだと理解している。
だが、原因はそれだけではない。
(触れただけだ。たった、それだけだ)
彼女の背の柔らかさ。腰に添えた手越しの弾力。耳元にかかる呼吸。
「……少し休憩を」
ニコラスの声が救いだった。
◇ ◇ ◇
足湯の湯気がゆっくりと立ちのぼる。
ルチアーノは椅子に腰掛け、足を湯に沈めると、温度がじんわりと染みた。
隣にはロゼッタが座っている。
「……気持ちいいですね」
声が和らいでいる。
「……ああ」
返事をしながら、意識は別の場所にある。
湯越しに伝わるわずかな水流。隣にある体温。衣擦れの小さな音。
素足が、ほんのわずかに触れた。
湯を介してもわかる、柔らかな弾力。
(……柔らかい)
喉がひくりと鳴る。ロゼッタは気づいていない。
(落ち着け)
目を合わせなくても踊れる。
だが、見えないからこそ、他の感覚が過剰に働く。
湯気の中で、彼女の香りがわずかに混じる。
(……ままならない)
心が思う通りに制御できないことが、こんなにも煩わしいとは。
何も起きていない。
だが確実に、何かが積み重なっている。
触れた足先の記憶は、湯の温度よりも長く残り、静かな室内でやけに鮮明に鼓動を速め続けていた。




