表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
盲目王子の専属侍女── 一歩先を導く侍女と追放王子の逆転劇  作者: チャーコ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

34/74

34 目を合わせないダンス練習

 離宮の執務室で、ルチアーノの落ち着いた声が、静かな室内に広がった。


「……目が見えなくなっても、社交は必要だ」


 ニコラス・サルヴィは書類に走らせていたペンを止め、ゆっくりと顔を上げた。


「舞踏会は王族の義務だ。視覚に頼らずとも、最低限の動作は身につけておく必要がある」


 感情を抑え、理屈として正しい言葉だった。

 正論であり、反論の余地はない。


「確かに。では、相手役を手配いたしましょうか」


 そう口にしかけた瞬間、ニコラスはわずかに言葉を止めた。

 止めた理由を、あえて深くは考えない。考えれば、余計なものまで見えてしまうからだ。


(いえ、考えなくても見えていますが)


 視力を失ってからというもの、殿下の世界は整理され、不要な者は遠ざけられ、必要な者だけが近くに置かれるようになった。

 生活は安定している。判断も揺らいではいない。ただし――。


()()()()が一人、近すぎる)


 社交の練習において、もっとも適していて、もっとも距離の管理が難しい相手が、目の前にいる。

 それを殿下も、そして当人も、まったく自覚していない。


(……手配などという言葉を口に出す前に、立候補が飛んでくる未来まで見えていますよ)


「はい!」


 明るい声が、まるで合図を待っていたかのように響いた。


「私でよろしければ、お相手いたします!」


 ロゼッタだった。

 間髪を容れず、迷いもなく、手をまっすぐに挙げている。


(ええ、そうでしょうね。あなたが手を挙げない未来は存在しません)


 ただ、専属侍女として役に立ちたい一心に見えるその姿が、なおさら厄介だった。


 ステラ・バルトーネが、横で首を傾げる。


「……これ、立候補がアリなんですか?」


 ロゼッタは不思議そうに瞬きをした。


「いけないかしら?」

「いけなくはないと思うけど……」


 ステラは言葉を濁し、ニコラスを見る。

 ニコラスは表情を変えなかった。


 見えない相手に慣れていること。

 子爵令嬢として舞踏の教養があること。

 距離の取り方、姿勢、体幹。


 条件としては、揃いすぎている。


(揃いすぎているからこそ、問題なのですが)


「……構わない」


 ルチアーノが端的に言った。

 声は落ち着いているが、ほんのわずかに硬さが混じる。


(ええ。そう答えるしかないですよね)


「では、ダンスホールを使いましょう」


 ニコラスはそう告げ、用意を始めた。


 ◇ ◇ ◇


 離宮のダンスホールは、昼でも静かだった。

 高い天井が音を柔らかく受け止め、足音は軽く反響する。


 ロゼッタは淡いピンク色のドレスに着替えていた。

 動きやすく、裾が広がりすぎない仕立てで、立ち姿には令嬢としての気品が自然に宿っている。


 ルチアーノは正装で立ち、杖を壁際に預け、背筋を伸ばした。


 濃い灰色の圧迫感のある視界が、相変わらず広がっている。

 だが、それ以外の感覚は澄んでいた。


 ステラがピアノに向かう。


「テンポはゆっくりめでよろしいですか?」

「お願いします」


 穏やかな旋律が流れ始める。

 ロゼッタが一歩前へ出た。


「では、こちらへ」


 輪郭のはっきりした声。

 石鹸に微かな柑橘が混ざった香りが、ふわりと届く。


 ルチアーノは手を伸ばす。触れた瞬間、指先に伝わるのは柔らかく温かな掌だった。

 その温度は、自分よりわずかに高い。


(……近い)


 一拍、呼吸が乱れた。


 一歩、二歩。

 足運びは正確だ。

 だが、彼女の身体の重心移動は王国式より浅く、直線的で、無駄がない。


(帝国式……)


 踏み込みの角度が違う。

 ルチアーノの足が、少しだけ遅れた。


「……ロゼッタ」

「はい?」

「その足運びは……」

「癖でしょうか。母に教わりました」


 言いながら、ルチアーノの背へ添えた手に、ほんの少し力が込められる。

 その瞬間、柔らかな身体の感触が、布越しに伝わった。


「殿下は……お身体の軸が安定していらっしゃるので、私も安心して踊れます」


 悪意も含みもなく、ただ事実を述べただけの声音。


(……軸、か)


 自分の胸板に触れていたロゼッタの手を、過剰に意識してしまう。


 彼女が回転すると、ドレスの布が舞う音が微かに届く。

 弾んだ息遣いを、間近で感じた。


(落ち着け)


 呼吸を整えようとするが、彼女の香りが思考の邪魔をする。


 ダンスは滞りなく終わった。



 足が、少し重い。


 久しぶりに踊ったせいだと理解している。

 だが、原因はそれだけではない。


(触れただけだ。たった、それだけだ)


 彼女の背の柔らかさ。腰に添えた手越しの弾力。耳元にかかる呼吸。


「……少し休憩を」


 ニコラスの声が救いだった。


 ◇ ◇ ◇


 足湯の湯気がゆっくりと立ちのぼる。

 ルチアーノは椅子に腰掛け、足を湯に沈めると、温度がじんわりと染みた。


 隣にはロゼッタが座っている。


「……気持ちいいですね」


 声が和らいでいる。


「……ああ」


 返事をしながら、意識は別の場所にある。

 湯越しに伝わるわずかな水流。隣にある体温。衣擦れの小さな音。


 素足が、ほんのわずかに触れた。

 湯を介してもわかる、柔らかな弾力。


(……柔らかい)


 喉がひくりと鳴る。ロゼッタは気づいていない。


(落ち着け)


 目を合わせなくても踊れる。

 だが、見えないからこそ、他の感覚が過剰に働く。


 湯気の中で、彼女の香りがわずかに混じる。


(……ままならない)


 心が思う通りに制御できないことが、こんなにも煩わしいとは。


 何も起きていない。

 だが確実に、何かが積み重なっている。


 触れた足先の記憶は、湯の温度よりも長く残り、静かな室内でやけに鮮明に鼓動を速め続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ