33 リカルド・ディ・ヴァレンティーノ――根拠なき判断
王宮の執務室には、報告の声が絶え間なく出入りしていた。
怒号も混乱もない。それは、問題が解決しているからではない。
形を持たないまま、押し流されているだけだった。
「北方の件ですが……現地は、引き続き動きはありません」
侍従の報告を、第二王子リカルド・ディ・ヴァレンティーノは椅子にもたれたまま聞いていた。机の上には、似た文言の書類が幾重にも重なっている。
「動きがない、か」
それ以上の言葉は続かない。
動きがない。
それが、どうしてこうも気に入らないのか、自分でもはっきりしなかった。
(……おかしい)
北方は寒害の兆候があり、王国の端で北の大帝国と国境を接している。
資源、交易路、国境警備。すべてが絡む要衝だ。
本来なら不満が出て、調整が必要になる。
王宮の判断が求められるはずだった。
それが――何も起きない。
「詳しい経緯は?」
「離宮から、再配分と輸送順の修正指示が出ております」
その言葉に、苛立ちが一段深まる。
「……また、離宮か」
視力を失い、王宮から退いた兄のいる場所。
(兄上は、もう表に出ていないはずだ)
それなのに、結果だけが整う。
王宮の指示より、離宮の判断が通る。
「つまり」
リカルドは侍従を見据えた。
「俺の判断より、離宮の判断の方が信用されている、ということか」
「結果としては……そうなります」
舌打ちが漏れた。
(理由が、わからない)
理由がわからないままでは、立っていられない。
王太子代理という立場は、理解されてこそ意味を持つ。
そのとき、侍従が控えめに言葉を足した。
「離宮の侍女が、最近動いていると……」
その一言で、リカルドの思考は飛躍した。
「侍女?」
「ロゼッタ・マリーニ。子爵家の娘で、第一王子殿下の専属侍女だそうです」
前に離宮で聞いた名だ。生意気にも自分に歯向かった侍女を思い出す。
「子爵令嬢が、侍女?」
声に、明確な侮りが混じる。
「下級貴族の娘が、王宮の政治に口を出しているということか」
誰かが「離宮の侍女が外で動いている」と言った。
それだけで十分だった。
(原因は、これだ)
見えない兄ではない。ニコラスでもない。
(身分の低い女が、出しゃばっている)
ふと、母の言葉が脳裏をよぎる。
――問題があるとすれば、人。原因を探せ。
(母上も、人に問題があると言っていた)
ならば、取り除けばいい。
そう考えた瞬間、胸の奥が軽くなった。
母のように理由を積み上げることは、彼にはできない。
「その女が、王都で何かしていると?」
「実用品を調達していたと報告があります」
「ますます怪しい」
実用品という曖昧な言葉が、かえって裏の意図を隠しているように思えた。
リカルドは鼻で笑う。
「北方の重要性も、大帝国との国境の重さも理解していないだろう。感情で動いて、現場を引っかき回しているんだ」
北方が要衝だという言葉は知っている。だが、その先を考えたことはなかった。地図の上で見た知識しかない。
(兄上は慎重すぎた。そこまで考える必要はない)
そう結論づけることで、立場は守られる。
「……探れ」
声が低くなる。
「離宮が何をしているのか。誰が動いているのか。どこから指示が出ているのか」
「殿下、正式な調査となりますと――」
「正式でなくていい」
侍従の進言を遮った。
「時間がかかる。今は理由が欲しい」
それは判断ではなく、焦りだった。
「商人でも下働きでも構わない。離宮の周囲を探らせろ」
侍従は沈黙する。
「金を積めば口は軽くなる。問題が起きたら、あとで封じればいい」
言い切ると、室内の空気が冷えた。
だが誰も反論しない。王太子代理の命令だからだ。
◇ ◇ ◇
ほどなく、裏で人が動き始めた。
王宮の正式な線を通さない分、情報は早い。
そして粗い。
「離宮の侍女は、午後に外へ出ることが多い」
「護衛は黒髪の男。常に張りついているわけではない」
「王都の人混みでは、離れる瞬間がある」
「子爵令嬢だ。金も持っているだろう」
情報は断片的で、裏取りも甘い。
誰の手を経由しているのか、どこまで広がっているのかを確認する者はいなかった。
リカルドにとって、それは「納得の材料」でしかない。
「……やはり、離宮だ」
証拠はない。だが納得はある。
「兄上が見えないのをいいことに、周りの者が勝手に動いている。ニコラスも、その侍女も」
怒りは形を持ち始めていた。
「北方支援も過剰だ。あそこまで手厚くする必要はない。帝国も今は動かない」
根拠はないが、そう断じることで、主導権を握った気になれる。
「離宮の連中を締めろ。勝手に動くな。勝手に外へ出るな」
命令は曖昧で広い。曖昧な命令は、現場を萎縮させる。
萎縮は、必ず隙を生む。
リカルドはまだ気づいていなかった。
自分が探しているのは真相ではなく、納得の置き場だということを。
そして、裏で探らせた線が、自分の足元にも同じように穴を開け始めていることを。
彼の判断は浅い。浅い判断ほど、自信に満ちている。
それが最も危うい。




