32 祭りの後に残る香り
夜の離宮は、音が少ない。
昼の賑わいが嘘のように消え、残るのは風が流れる音と、遠くで巡回が歩く気配だけだった。戻ってきたはずの静けさが、今夜はなぜか落ち着かない。
(……残っている)
薔薇の香りが、まだわかる。
花はロゼッタが持っている。それなのに香りだけが、この部屋に留まっている気がした。記憶のせいだと理解していても、心がそれを否定する。
杖を定位置に置き、椅子に腰を下ろす。外套を外し、次の動作を考える。
(入浴の前だな)
いつも通りの順番だった。崩す理由はない。
それなのに、立ち上がる前に、思考が別のところへ逸れた。
革紐。触るとわかる、小さな花の彫り。
爪やすりの柄に刻まれた、同じ意匠。
(……なぜ、花だった)
偶然だとわかっている。
彼女は、祭りの由来も、言い伝えも知らない。
役に立つから選んだ。触ってわかるから選んだ。
それだけのはずなのに、想花祭の意味を知っている自分の中では、どうしても引っかかる。
(知っているのは、私だけか)
知らないままでいればよかった、と一瞬だけ思った。
それが、妙に重い。
廊下の向こうから、微かな音がした。
布が擦れる音。シーツを広げる気配。
ロゼッタが、ベッドの支度をしている。
(……まだ、起きているのか)
本来なら、もう自室へ戻っていていい時間だ。
だが、専属侍女として、寝る前の準備を整えているのだろう。
直接見なくても、様子がわかる。
ベッドの端を揃え、掛け布を軽く振り、皺を伸ばす――あの静かな手際。
(気にすることではない)
そう思うのに、意識がそちらへ引っ張られる。
昼間、テラス席で茶を飲んだときの距離。
薔薇を受け取ったときの、手の温度。
香りを楽しみながら、柔らかく笑った声。
(……落ち着け)
自分に言い聞かせる。
今日一日、判断は崩れていない。歩行も、会話も、問題はなかった。
ただ――。
(近すぎた)
それだけのはずなのに、もう一度あの距離を思い出してしまう。
人混みだから仕方がない。テラス席は狭かった。
それでも、距離を意識しすぎている。
廊下で、足音が止まる。次に聞こえたのは、控えめなノックだった。
「殿下」
昼間と少し違う、いつもの落ち着いたロゼッタの声。
「お風呂のご用意が整いました」
「……ああ」
返事をしてから、なぜか一拍遅れる。
「今夜は、文字の練習はなさらなくて大丈夫ですか?」
あくまで確認だ。押しつける気配はない。
「……今日はいい。少し、疲れている」
「かしこまりました」
それだけで引いて、それ以上、踏み込まない。
「では、先に失礼いたします。おやすみなさい、殿下」
「ああ。おやすみ」
足音が遠ざかる。扉が閉まり、静けさが戻る。
それでも、胸の奥が落ち着かない。
(……厄介だな)
香り。贈り物。距離。
そして、外でベッドを整える彼女の気配に、なぜか心拍が一段上がったこと。
入浴の前に、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
今夜は、考えすぎるには疲れている。
――考えなければ、済むのなら。
だが、もう何もなかったことには戻れない。
その自覚だけが、静かな部屋に残っていた。
◇ ◇ ◇
離宮の外廊下は、夜になると足音が響きやすい。
だが、その足音は規則正しく、無駄がなかった。
ニコラス・サルヴィは書類から視線を上げ、扉の方へ顔を向ける。
「入りなさい」
扉が開き、黒衣の男が一礼して入室した。
ジャミル・ナディール。
護衛として街に出ていた男は、外套を脱いでいても、その立ち姿に一切の乱れがない。市民に紛れるための服装はすでに脱いでいるが、雰囲気まで切り替える気は最初からなかったらしい。
「報告します」
声音は低く、感情の起伏はない。
「想花祭の外出において、危険行為、接触、追跡はありませんでした」
「人の流れは?」
「多い時間帯がありましたが、殿下の歩行に支障はなし。ロゼッタ嬢が適切に誘導していました」
ニコラスは小さく頷く。
そこは想定内だ。彼女はそういう場面で判断を誤らない。
「花売り、屋台、飲食店での滞在がありましたが、問題ありません」
一拍置いてから、続ける。
「……一点」
ニコラスの指が、わずかに止まった。
「どうぞ」
「殿下が、花を購入されました」
言い方は淡々としている。まるで「水を飲みました」とでも言うような調子だ。
だがニコラスは、思わず内心で呻いた。
(……よりにもよって)
「相手は?」
「花売りの少女です。祭りの通りを回っていた市民。危険性はありません」
「渡した相手は?」
「ロゼッタ嬢です」
間違いなく、必要な情報だけを正確に報告している。
だが、その内容が、問題の核心だった。
(知っているのは殿下だけ。知らないのはロゼッタ嬢だけ。そして、それを一番よく知っているのが……私ですね)
ニコラスは、表情を一切変えずに続ける。
「他には?」
「ロゼッタ嬢から殿下へ、実用品の贈与がありました」
今度は、少しだけ言葉を補足する。
「革紐と、爪を整える道具です。いずれも触覚で識別できる意匠が施されていました」
ニコラスの脳内で、すべてが一本の線で繋がった。
(花の意匠。想花祭。……完全に、成立していますね)
だが、それを口に出すわけにはいかない。
「殿下のご様子は?」
「終始落ち着いていました。ただ――」
ほんの一瞬、間が空いた。ジャミルにしては珍しい。
「……帰路では、注意の配分が、わずかに内側へ寄っているように見えました」
あくまで観察結果として。評価も、推測も混じらない。
「以上です」
一礼して、ジャミルは報告を終えた。
「ご苦労様でした」
そう告げてから、ニコラスは一息つく。
扉が閉まる音を聞きながら、ようやく内心の言葉を解放した。
(……ええ。ええ。そりゃあ、そうなるでしょう)
想花祭。花を贈る行為に意味が宿る日。
知らずに花の意匠の実用品を贈り、知らずに薔薇を受け取って微笑む。
(無自覚で、ここまで綺麗に踏み抜く人も珍しい)
ニコラスは、机に肘をつき、片手で額を押さえた。
(しかも殿下は、知っている側だ。知ったうえで、止められなかった)
王族と子爵令嬢。身分の差は、現実として重い。
だが同時に――。
(十六歳の少年が、健全に心を揺らしているだけなのです)
見えなくなっても、感情を閉ざさなかった。
怒りや恐怖、絶望だけで固まらず、誰かに惹かれ、戸惑い、距離を測ろうとしている。
(……歓迎すべき成長ですね)
頭が痛いのは事実だ。だが、喜ばしくもある。
ニコラスは、そっと息をついた。
(しばらくは――見守るしかありませんか)
抑え込めば壊れる。放置すれば危うい。
だからこそ、環境を保ち、距離を管理し、逸脱しないよう支える。
(本当に、忙しいですね。恋の見守り隊というのは)
書類に視線を戻しながら、ニコラスは苦笑を噛み殺した。
静かな離宮の夜は、何事もなかったように続いていく。
だがその中心で、確かに一つの想いが、芽吹いてしまったことだけは――もはや、誤魔化しようがなかった。




