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盲目王子の専属侍女── 一歩先を導く侍女と追放王子の逆転劇  作者: チャーコ


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31 祭りの音、近い距離

 ニコラス・サルヴィは書類から顔を上げ、朝の執務室を見渡した。


「本日、王都は想花祭です」


 声に出すと、事務作業をしていたステラ・バルトーネが、すぐに反応した。彼女は余計な感情で手を止めないが、面白いものを見逃すほど鈍くもない。


「想花祭……あの、花のお祭りですよね?」

「ええ。花が最も香る時期に行われ、昔は花市から始まりました。今では王都全体の催しになっていますが、由来は市井の行事です」


 ニコラスは淡々と続ける。説明は必要最小限にするつもりだったが、今日は、外の世界へ連れていくための前提が要る。殿下のため――そして、自分自身の判断のためだ。


「花を贈り合った二人は末永く想いを保つ、という言い伝えがあります。花そのものより、()()()()()()に意味があるのが特徴です。恋人同士の祭りだと、ほとんどの市民は理解しています」


 ステラの眉がわずかに上がった。その反応だけで、彼女が()()()()()()を即座に掴んだとわかる。ステラは窓の外――王都の方角へ、ほんの一瞬だけ視線をやった。


「つまり、あれですよね。花を受け取って断らなければ……」


 ステラは途中で言葉を飲み込んだ。言葉にしてしまうと室内の空気が変わる。彼女はその加減を知っていた。


「ええ。だから、由来や言い伝えを知らない者ほど、無自覚に踏み込みます」


 ステラは一度だけニコラスを見た。そして、彼にしか届かない声量に落として囁く。


「……恋の見守り隊、始動ですね」


 ニコラスは返事をしなかった。だが内心では、当然のように突っ込んでいる。


(始動などと言える立場ではありませんが、あなたに言っても仕方がありませんね)


 廊下の向こうから、杖の音が聞こえた。ルチアーノとロゼッタだ。専属侍女として、ロゼッタが傍にいるのは当然で、今日もその配置は崩れていない。


「ニコラス」


 ルチアーノが室内に入る。視線は定まらないが、姿勢は崩れず、声も揺れない。ロゼッタは後ろに控え、必要以上に前へ出ない。二人の距離は安定しているのに、その安定が今や()()()でもあることを、ニコラスだけが知っている。


「殿下。ロゼッタ嬢。本日、王都は想花祭です。外出を提案します」


 ロゼッタの表情が一瞬で明るくなるのがわかった。感情が前に出ること自体は悪いことではない。むしろ、彼女がここまで抑え込まないのは珍しい。


「お祭り……ですか?」


 声が弾んだ。抑えようとしても、抑えきれない期待が滲む。


「殿下が行ってもよろしいならば、私も行ってみたいです」


 その一言で、ルチアーノの逃げ道は消えた。ニコラスは内心でだけ、はっきりと結論を強める。


(ええ。そうなるでしょうね)


 ルチアーノは一拍置いてから答えた。迷いではなく、理解のための間だ。


「……承知した」


 ロゼッタがほっと息をつく。彼女にとっては許可が出た、それだけだった。想花祭が何を意味するかなど、まだ視界の外にある。


 ニコラスは引き出しから小さな布袋を取り出した。硬貨の音が控えめに鳴る。


「現地で必要になるでしょう。お小遣いです。殿下は今、自由に持ち歩けるお金がありませんから」


 ルチアーノの指が一瞬止まり、すぐに袋を受け取った。


「……わかった」


(ええ。わかった、のでしょう。今日の()()の意味まで理解しているかは別として)


「護衛はジャミルです。市民に紛れる形で同行します」


 ロゼッタが首を傾げる。


「市民に……紛れますか?」


 ステラが、口の端だけで笑った。


「紛れますかね」


 ニコラスは表情を変えない。心の中では即答している。


(無理でしょうね。あの男は、目立つ努力をしていないのに目立つ)


 ◇ ◇ ◇


 王都へ入ると、空気の密度が変わった。離宮の静けさとは違い、人の気配や音が多い。どこからともなく甘い焼き菓子の香りが流れ、油の匂いが追いかけ、香草の匂いが混じっていく。

 ロゼッタは通りで思わず足を止めた。


「……すごいですね」


 圧倒された言葉が出る。顔を上げるたびに屋台があり、花があり、色布が風に揺れている。目が追いつかないほど、街全体が動いているようだった。北方の国境沿いにいた頃、行事はあっても、こんなに生活の中心ではなかった。


「人が、たくさん……」


 こんな風に心が浮き立つ感じを、久しく忘れていた気がした。


「殿下、大丈夫ですか?」


 すぐ隣のルチアーノに声をかける。人混みの中でも、彼は姿勢を崩していなかった。杖の位置も、歩幅も安定している。


「問題ない」


 短い返事は思ったより近い。人が多い分、距離が自然に縮まっている。ロゼッタは半歩前を意識し、声が届く位置を保ちながら、殿下の判断を邪魔しない速度で歩き出した。


「では、ゆっくり行きましょう。人の流れ、右側が多いです」

「……ああ」


 歩くだけで情報が押し寄せる。地面は石畳で段差や障害物が多い。屋台の布が風を受ける音、人々のざわめき。音の種類が増えるほど、ルチアーノには負担になるはずだと頭ではわかっている。それでも彼は歩みを止めない。止めないこと自体が、今の彼の強さだ。


「このお祭り、毎年こんなに賑やかなんですね」


 ロゼッタは、つい声を弾ませてしまう。けれど、今日は祭りという場が許してくれる気がした。


「屋台も多いですし……あ、あれは飴でしょうか」


 色とりどりの飴を指さしてから、はっとして手を引っ込める。指さしても殿下には見えない。


「……すみません。つい」

「気にするな」


 淡々とした返事なのに、どこか柔らかく、ロゼッタがはしゃいでいることを咎めない。その余裕が、彼の内側に「今は大丈夫」という余白を作っているように見えた。


 少し進んだところで、人の流れが妙に割れた。誰かが道を空けている。ロゼッタは首を傾げ、理由を探してすぐに理解した。


 少し後ろ、一定距離を保って歩く男がいる。市民の服装だが、姿勢が良すぎる。鋭い視線の置き方が周囲と違う。人々が無意識に避けてしまうのも、当然だった。


(……護衛の方)


 ロゼッタは小声で呟いた。


「……あの方、少し目立ちませんか?」

「気のせいだ」


 ルチアーノはそう言い切った。


 ロゼッタはもう一度ちらりと振り返る。男は何もしていないのに、()()()()で周囲の空気が変わっている。だが、それ以上は言わない。護衛がいるのは当然で、殿下に不安を増やす言い方は避けたい。


 ロゼッタは人の流れから少し外れ、屋台が並ぶ脇道へ誘導した。音が少し落ち着き、空気の圧が和らぐ。


「殿下、こちらは比較的人が少なそうです」

「……助かる」


 その言葉に、ロゼッタは胸を撫で下ろした。殿下が無理をしていないことを確認できると、自分も落ち着く。


 革製品の屋台の前で足を止める。手袋、小袋、紐状の小物。ロゼッタは棚を見渡し、すぐに「殿下向き」の品を見つけた。


 杖に結びつけられる革紐。留め具の近くに、指先でなぞってわかる小さな花模様の彫りがある。簡素だが、輪郭がはっきりしていた。


 続けて爪やすりも手に取る。柄の部分に、同じように花の意匠が刻まれている。


 殿下の負担にならないよう、そそくさと支払いを済ませ、包みを抱える。渡すのは、もう少し落ち着いてからにしたかった。人混みの中で手渡すと、殿下の注意が散ってしまうし、落とす危険もある。


 そのとき、ルチアーノの呼吸が少し浅くなったのに気づいた。歩行の乱れはないが、疲労の兆しが窺える。


(……人が多すぎるのかもしれない)


 ロゼッタは迷わず言った。


「殿下、人が多いですね。……よろしければ、少し休みませんか?」


 提案の形を守り、判断は殿下に残す。


「……ああ」


 返事は素直だった。ロゼッタはほっとし、近くのカフェへ向かった。店の奥ではなく、外に面したテラス席に座る。祭りの空気を切り離しすぎず、人混みの圧からは離れられる。


 通りから差し込む陽が、テラス席の床に細い影を落としていた。椅子に腰を下ろすと、音が穏やかになる。屋台の呼び込みは遠くなり、代わりに茶器の触れ合う音と、静かな話し声が近くなる。


「落ち着きますね」


 ロゼッタがそう言うと、ルチアーノは頷いた。


「……ああ」


 その返事が、先ほどより少し柔らかい。人混みの圧から解放され、彼の中に余裕が戻ってきたのがわかる。ロゼッタは、その変化に少しだけ嬉しくなった。


 視界の端に、護衛の男が見えた。少し離れた席に座り、同じように茶を頼んでいる。市民に扮しているはずなのに、座って茶を飲む動作が静かで、姿勢が良すぎる。


 若い女性が一度視線を止め、隣の連れに小声で何かを言ってから、慌てて目を逸らした。


(……やっぱり目立つ)


 ロゼッタは苦笑し、視線を戻した。

 それから包みを膝の上に乗せ、口を開く。


「殿下、先ほど……お祭りの通りで、少し買いました」


 言い方は控えめだが、声はいつもより明るい。楽しい空気に引っ張られているのもあるし、役に立つものを見つけた満足感もある。


「これを」


 革紐を差し出す。留め具の近くに、花が刻まれている。


「杖に結ぶと、落としにくくなるそうです。それから、触ると花の模様がわかるので……目印になると思って」


 ルチアーノが指で彫りを確かめる。指先が一度止まり、次にゆっくりとなぞり直した。


「……確かに、わかりやすい」


 ロゼッタは頷き、もう一つの包みを出す。


「こちらは爪やすりです。爪切りが難しい方もいると聞いたことがあって……安全かなと」

「……ありがとう」


 ルチアーノの素直な言葉に、ロゼッタは頬が少し熱くなるのを感じて、慌てて茶器に手を伸ばした。


「お茶、冷めないうちに」


 そのときだった。

 テラス席の外側――通りを歩く花売りの少女が、こちらを見て、にこっと笑いかけた。


「想花祭の薔薇はどうですか?」


 籠の中で揺れる薔薇は、赤や淡い色が混ざり、どれも香りが強いのがわかる。


「いい香りの薔薇、ありますよ。贈り合うと、ずっと一緒にいられるって!」


 ロゼッタは思わず目を向け、他意なく言った。


「……素敵な香りですね」


 その一言で、ルチアーノの動きが止まった。


 ロゼッタが楽しそうにしている。

 祭りの音が遠くで鳴っている。花の香りが、今ははっきりと届く。

 その瞬間、彼は判断ではなく()()で動いた。


「……香りが、いい」


 短く呟き、硬貨の音がした。少女に支払いを済ませている。

 ロゼッタが戸惑って顔を上げる間に、薔薇が差し出された。


 ルチアーノはためらいながらも手を引かなかった。祭りの雰囲気と、ロゼッタの弾んだ声に引っ張られ、緩んだところへ香りが刺さった。それだけのことだ。


「……香りが気に入った。あなたが持つといい」


 言い方は淡々としている。ロゼッタは微笑んで受け取った。


「ありがとうございます」


 薔薇を胸元に寄せ、香りを確かめる。


「本当に、いい香りですね。嬉しいです」


 それで終わりだった。

 ロゼッタにとっては、祭りの中で、少し嬉しい贈り物が増えただけだ。


 ロゼッタはまだ、知らない。

 この祭りが()()()()()()()()だということも、贈り物に意味があるということも。

 自分が渡した実用品に、触ってわかる花の意匠を選んだことが、無自覚に言い伝えに沿ってしまっているかも。


 ただ今日が楽しく、それだけで十分だった。

 ルチアーノの隣で、ロゼッタは薔薇の香りを堪能し、少しだけ笑った。

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