30 二人だけの秘密に揺れる心【挿絵あり】
お話の途中に、貴様二太郎さんに描いていただいた挿絵があります。
執務机の上に並べられた道具を前にして、ロゼッタは一度だけ、ほんの小さく呼吸を整えた。
「殿下。今日は、二人だけの秘密の文字の練習をしませんか?」
それは単なる提案だった。
飾り気も、含みもない、いつも通りの声音。だが――。
(……二人だけ)
その言葉が、思考より先に胸に落ちる。
ルチアーノは一瞬返事を忘れ、次の瞬間には反射的に頷いていた。
「……ああ」
(……なぜ、私は即答した)
内心でそう思ったときには、もう遅い。ロゼッタは何事もなかったように、話を進めている。
「触れて読む文字は、読むだけでなく、書くこともできます。ただ……少し、ややこしいです」
机の上に置かれたのは、薄い板と紙、それから先端が細く尖った筆記具だった。筆のようだが、書くというより、押すための道具だろう。
「こちらは、紙を裏から押して点を作る、先端が尖った筆記具です」
そう説明してから、わずかに言葉を選ぶ。
「読むときに触れるのは、表に出た点ですよね。でも書くときは、裏から押した点になります」
ルチアーノは静かに頷く。
「つまり……」
ロゼッタは、できるだけ噛み砕いて続けた。
「読むときに触っている膨らんだ点と、書くときに押す点は、鏡に映したみたいに左右が反対になります」
「……鏡像、ということか」
「はい。なので、読むときと書くときでは、同じ文字でも、点の位置が逆になります」
説明は丁寧だ。理屈も理解できる。
だが、理解できることと、実際にやることは別だった。
(……これは、厄介だな)
「それと……」
ロゼッタは、視線を筆記具に落とした。
「先端が尖っていますので、殿下のお手元が危ないかもしれません。少しだけ、失礼しますね」
一拍置いて、ロゼッタの手が、ルチアーノの右手を包んだ。
強くはないが、完全に覆われている。
掌から伝わる温度が、はっきりと感じられた。
(……温かい)
自分より高い体温が、指先から手首へ、じわりと広がる。
同時に、香りが届いた。
清潔な石鹸の香りに、ほんのりと爽やかな柑橘。近づかなければわからない、ロゼッタの香り。
そして、優しい声。
「こうやって持ちます。力は入れなくて大丈夫です」
耳のすぐ後ろで囁く、柔らかく輪郭のはっきりした声。
(……近い)
思考が、一拍遅れる。
「殿下、書く文字は……最初に殿下がロゼッタの文字を覚えたいとおっしゃったので」
無自覚に追い打ちをかけられて、ルチアーノの頬が熱を帯びる。
「今日は、rosettaを書いてみましょう」
(それを言うな)
だが、口には出せない。
「……ああ」
返事は平静を装っていたが、内側は完全に落ち着いていなかった。
ロゼッタは背後に立ったまま、ルチアーノの手を包み、板の端を示す。
「ここが端です。紙を板に固定して、まずこの位置に点を押します」
指が動くたび、袖越しに体温が伝わる。
彼女の香りが、紙と木の匂いに混じる。
(……集中しろ)
尖った筆を押す。
紙が裏からへこむ、確かな感触。
「そのまま……次です」
次。
その言葉を、無意識にいつもの順番として受け取ってしまう。
(……読むときの向きだ)
考え直す余裕がない。ロゼッタが近すぎる。
彼女の香りと温度と声が、ルチアーノの思考を奪う。
押す。
押す。
ロゼッタは止めない。ルチアーノが自分で書いているからだ。
「……ここまでです」
そう言われて、ロゼッタが手を離す。
離れた途端、空気が少しだけ冷える。
(……助かった)
そう思ってしまったことに、内心で動揺しながら、ルチアーノは紙を外した。
「では表に返して、触って読んでみてください」
いつも通り、左から右へ。
一文字目。
「……?」
二文字目。
(……違う)
三文字目で、確信。
「……attesor?」
沈黙が落ちる。
少し間を置いて、ロゼッタがこらえきれずに小さく笑ってしまった。
「……すみません」
「笑うな」
「いえ……とても、わかりやすい失敗です」
彼女は責めないし、否定もしない。
「殿下、鏡の関係を頭では理解されていました。でも……」
少し、言葉を選ぶ。
「読むときの癖が、身体に残ったまま書いてしまったんだと思います」
ルチアーノは額に手を当てた。
(……そうだ。理解しているのに、距離が近くて、考え直す余裕がなかった)
「……もう一度だ」
「はい。もう一度やりましょう」
今度は、ロゼッタが一歩だけ距離を取る。
「殿下。……こうやって書く。わかりましたか?」
「……わかった」
(あんまり、わかっていないが)
だが、今度こそ間違えたくない。
再び書く。
読む癖を、意識して捨てる。
書き終え、紙を返して指を滑らせる。
「……rosetta」
「はい。できています」
ロゼッタの声が、明るく和らいだ。
「殿下、ご自身で書けました」
その言葉に、胸の奥でじんわりと温かさが広がる。
二人だけの秘密の文字。
二人だけが知っている、間違いと成功。
ルチアーノは筆を置き、深く息をついた。
(……これは)
文字の練習では、済まない。
ロゼッタの香りも、温度も、声も、距離も。
視覚以外の情報すべてで、自分を揺さぶっている。
そして何より厄介なのは――彼女が、それをまったく自覚していないことだった。
(……捨てられるわけがないだろう)
こっそり最初に失敗した紙を懐にしまいながら、ルチアーノはもう一度、ゆっくりと息をついた。
今回のお話を書いて、点字の構造が少し複雑なので、二太郎さんに挿絵をお願いしました。
わかりやすく点字イラストを描いていただき、誠にありがとうございました!
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