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盲目王子の専属侍女── 一歩先を導く侍女と追放王子の逆転劇  作者: チャーコ


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29 ソフィア前王妃の肖像画

 離宮の奥へ向かう廊下は、昼でも静かだった。

 人の出入りが少ないせいで、足音が石に当たってもすぐに薄まり、空気の流れだけがゆっくりと残る。


 ロゼッタは、殿下の半歩後ろを歩きながら、扉の位置に近づくにつれて自分の呼吸が少しだけ整っていくのを感じていた。

 理由ははっきりしている。ここは、まだ入ったことのない場所だった。


 ルチアーノは迷いなく足を止めた。

 杖の先を一度、床に当ててから、手を扉の取っ手へ伸ばす。位置も高さも間違えない。


(……覚えていらっしゃる)


 目が見えなくなってからも、ここまで正確に動ける場所がある。

 それだけで、この扉の向こうが殿下にとって特別だとわかった。


「……ここですか」


 ロゼッタが小さく問いかけると、ルチアーノは短く頷いた。


「ソフィア前王妃の肖像画がある部屋だ」


 扉が開く。

 空気が少し変わった。外廊下よりも温度が一定で、音が吸われる感じがある。長く使われていない部屋の匂いと、わずかな絵具の気配が混じる。


 ロゼッタは一歩だけ前に出た。

 視線が自然に上がる。

 そこに、高貴な女性を描いた絵があった。


 淡い金髪。

 光を含むような色で、燭台の火の下でも派手に反射しない。髪はきちんとまとめられているのに硬さはなく、柔らかな線で肩の輪郭を縁取っていた。


 瞳は、深い青。

 海のように広く、静かで、底の方に温かさを持っている。見る者を射るような鋭さではなく、見守る距離の青色だった。


 端整な顔立ち。

 美しいのに、飾り立てていない。王妃としての豪奢さより、揺れない品位が際立っている。


(……殿下に、似ている)


 ――思ったよりも、ずっと。

 ロゼッタは、息を呑んだ。淡い金髪の色も、青い瞳も、整った輪郭も同じだ。

 目の前の肖像画は、殿下の「母」だった。


「……似ているだろう」


 ルチアーノが、こちらを向かずに言った。

 見えていないのに、ロゼッタの反応を当てるような声だった。


「はい。驚きました」


 素直に答えると、ルチアーノは小さく息をつく。


「私は、この絵を……何度も見た。子どもの頃から」


 その言葉の響きは淡々としている。

 だが、薄い膜の向こうで何かを確かめるような慎重さがあった。


「髪は淡い金だ。強い光だと白く見える。目は青で、右の方がわずかに明るく見えた。唇の色は薄い。装飾は多くないが、首元に小さな留め具がある。……ここに」


 ルチアーノは、胸元のあたりを指で示した。

 その位置が正確で、ロゼッタは思わず肖像画を見上げ直す。

 確かに、首元に小さな留め具が描かれていた。金属の光が控えめに落ちている。


(……暗記している)


 ただ覚えているのではない。

 見た景色として、正確に頭の中に残している。

 ロゼッタは、そのことに少しだけ胸が締まった。


 見えていた頃の記憶が、こうして残っているということは――今も、その記憶と現実の差を、毎日どこかで感じ続けているということだから。


「……母は、この部屋に来ると落ち着くと言っていたらしい」


 ルチアーノは続けた。


「私はそれを真似た。落ち着く理由は、わからなかったが」


 ロゼッタは、肖像画の表情をもう一度見た。

 微笑んでいるわけではない。けれど厳しくもない。視線はまっすぐ前を見ていて、見る者を縛らない。


(前に出ない。でも、いなくならない)


 その距離は、どこかロゼッタのやり方にも似ている。

 気づいた瞬間、胸の奥が小さく揺れた。


 扉の外で、足音が止まる。次いで、控えめな声。


「殿下」


 ニコラス・サルヴィの声だった。


「入れ」


 扉が再び開き、ニコラスが一礼して室内に入る。

 いつもと変わらぬ落ち着いた所作だが、この部屋に入るときの空気はわずかに違った。

 彼は肖像画に視線を向け、短く息をついた。


「……久しぶりですね」


 それは、王妃に向けた挨拶ではなく、親しい者に向ける声だった。


「ニコラス様は、前王妃と……」


 ロゼッタが問いかけると、ニコラスは一拍置いて答える。


「親友でした」


 言い方は淡々としている。

 だが、その一言の重さは隠しきれない。


「ソフィア様は、王妃という役目の前に、いつも人でした」


 ニコラスは絵の前に立ったまま、目を細める。


「人を管理しません。正しさを押しつけません。判断は、本人に残しました。……それでも、必要な環境だけは整える方でした」


 ロゼッタは、その言葉の一つひとつを胸の中で確かめる。

 聞き覚えがある。


(……私も、同じことをしているつもりだった)


 殿下の生活で、ずっと守ろうとしてきた線と同じだ。


「殿下が、殿下のままでいられるように」


 ニコラスは静かに続ける。


「ソフィア様は、それだけを優先していました。自分が前に出ることは、一度も望まなかった」


 ルチアーノは、しばらく何も言わなかった。

 杖の柄を指でなぞり、呼吸を整える。


 ロゼッタは、肖像画を見上げた。

 淡い金髪と深い青の瞳。端整な輪郭。前に出ない距離。


(……基準だったのだ)


 殿下の容姿だけではない。

 殿下の「距離感」や「判断の仕方」そのものが、この人を基準にして育っている。


 そして今。

 その基準を失った世界で、殿下は別の基準点を持ち始めている。

 そのことに気づいた瞬間、ロゼッタは胸の奥で小さく息をした。

 嬉しいでも、怖いでもない。もっと静かな感情だ。


(……私は)


 自分がどこに立っているのかを、はっきり言葉にするのはまだ早い。

 ただ、確かなことがある。

 この肖像画の前に立つ殿下は、孤独ではない。

 過去に支えられているのではなく、今ここにある距離と呼吸に支えられている。


 ロゼッタは、もう一度だけ肖像画を見た。

 先ほどより表情が違って見える。厳しさではない。甘さでもない。ただ静かに見守っている。

 それが、母の思想なのだとわかる。


「……行こう」


 ルチアーノの声が落ちた。

 ロゼッタは頷き、半歩後ろへ戻る。


「はい」


 扉を出ると、廊下の空気が少しだけ冷たく感じられた。

 それでも、足音は一定で、杖の音も落ち着いている。


 ソフィア前王妃の肖像画は、そこに残る。

 だが、その役割はもう「過去」だけではない。

 今の殿下の世界が、何を基準に成立しているのか。


 ロゼッタはその答えを、静かに胸の内に置いたまま、殿下の半歩後ろを歩いた。

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