27 恋心の自覚
昼の離宮は、穏やかだった。
歩行も食事も問題なくこなせている。身体は完全に戻っているはずなのに、胸の奥だけが、どうしても落ち着かなかった。
中庭から戻る途中、ロゼッタが半歩前を歩く。
杖が床を叩く音、足裏に返る反発、彼女の歩調。どれも昨日までと変わらないはずなのに、意識が勝手にそこへ引き寄せられる。
「殿下、足元に落ち葉があります」
「ああ……ありがとう」
返した声が、自分でも驚くほど柔らかい。
気づいた瞬間、ルチアーノは一度呼吸を整えた。
(意識しすぎだ)
昼食のあと、執務の合間に短い休憩を取る。
ロゼッタが白湯を注ぎ、器を置くまでの気配を追っている自分に気づき、無意識に身体の向きを変えた。
(……何をやっている)
見えてはいない。
それでも、そこに彼女がいることを確かめるように、感覚が動いてしまう。
午後、ニコラスが顔を出した。
「体調はいかがですか」
「問題ない。……昨夜は、世話になった」
余計な一言が混じった自覚はある。
それでも、取り消す気にはならなかった。
「そうですか」
ニコラスはそれ以上踏み込まず、執務の話に戻る。
だが一瞬だけ、視線がロゼッタの位置へ向いたのを、ルチアーノは感じ取った。
(……見られたな)
夕方、ロゼッタが物を取りに席を外した。
ただそれだけで、空気の感触が変わる。
(妙だ)
不安になるわけではない。
ただ、時間の流れが掴みにくくなる。
彼女が戻ると、その違和感は自然に薄れた。
「……戻ったか」
「はい。お待たせしました」
声を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに温かくなる。
その反応を、もう誤魔化さなかった。
(わかっている……)
昨夜、泣いて縋ったあとから、ずっと考えていた。
近くにいないと落ち着かない。声が届く位置にいると、思考がまとまる。
看病や支援という言葉では、どうしても足りない。
(……恋だ)
結論は、すでに出ている。
問題は、そのあとだった。
(……どうすればいい)
相手は専属侍女。
年上で、身分差があり、何より――距離感が完璧におかしい。
(私が告白するのか?)
無理だとしか思えない。
言った瞬間、すべてが壊れる気しかしない。
(……落ち着け)
まずは平常心を心がけ、距離を保つ。言葉を選ぶ。意識しない。
「ロゼッタ」
「はい、殿下」
返事がすぐに返ってくる。
それだけで、少し安心してしまう。
(……駄目だ)
「……無理はするな」
「はい?」
一瞬、間が空く。
「本日の予定は、通常通りですが……」
「そうではない。……声を使いすぎるな」
言ってから、しまったと思った。
(変なことを言っている)
「はい。気をつけます」
ロゼッタはそのまま素直に受け取ったようだった。
(……伝わっていない)
翌日からも、その変化は続いた。
名を呼ぶ回数が、明らかに増える。
「ロゼッタ」
「ロゼッタ、食事はしているか?」
「ロゼッタ、無理をしていないか?」
気づけば、呼んでいる。
(明らかに呼びすぎだ……)
ロゼッタは気にした様子もなく、いつも通り返事をする。
「はい」
「ちゃんと食べています、殿下」
「大丈夫です。ご配慮ありがとうございます」
距離は保っているし、踏み込まない。
それでも言葉の温度だけが、確実に変わっていた。
◇ ◇ ◇
少し離れた場所で、ニコラス・サルヴィは状況を観察していた。
(……自覚しましたね)
殿下は自分の感情が何であるかを、すでに理解している。
(ですが、扱い方が壊滅的です。そして彼女は鈍い)
声が先に出る。距離は保っているつもりで、実際は寄っている。
(告白は、まだ先でしょう)
それでいい。今は制御が追いついていない。
(ですが――)
ロゼッタを遠ざければ、殿下の心の均衡が崩れることも、ニコラスには見えていた。
(止めれば壊れます)
ならば、やるべきことは一つだった。
(……見守りましょう)
距離を管理し、逸脱を防ぎ、均衡が崩れないよう整える。
ニコラスは表情を変えず、視線を戻した。
世界はまだ崩れていない。
ただ、その中心が一人の侍女に寄り始めていることだけは、誰の目にも明らかだった。




