26 新しく得た温度
朝の気配に、ルチアーノは目を覚ました。身体は軽く、頭も澄んでいる。昨夜の熱は引いていたが、その代わりに胸の奥に、別の意味で落ち着かないものが残っていた。
(……手)
自分の手が、まだ誰かの手に包まれている。温度があり、指先が微かに動く。離そうと思えば離せるはずなのに、その判断を先延ばしにしている自分がいる。
(……なぜ、離さない)
理由を考えた瞬間、面倒な結論に辿り着きそうで、思考を止めた。
しばらくして、椅子の上で小さく身じろぎをする気配がした。
「あ……」
短い声のあと、少し慌てた空気が落ちる。
「おはようございます、殿下。お加減はいかがですか」
いつも通りの声だった。昨夜のことなど、まるでなかったように。
「……おはよう。熱は、もうない」
返事をしてから、間が空く。二人とも、まだ手を離していない。
(……気まずい)
気まずいのは自分だけらしい。ロゼッタは手を包んだまま、何でもない調子で続けた。
「よかったです。脈も落ち着いていますね」
軽く指先が動く。診察の延長のような手つきだった。
(診察の延長で済む距離ではない)
「……昨夜は」
ようやく言葉を探す。
「……助かった」
それだけでいいはずだった。ロゼッタは少しだけ息をつき、穏やかな声で返事をする。
「専属侍女ですから」
そこでようやく、ロゼッタは「あ」と小さく言った。
「失礼しました。つい、そのままで」
手が離れる。指先の温度が引いて、少しだけ寂しい。
(……名残惜しい)
思った瞬間、内心で自分に呆れた。
話題を変えよう。今すぐに、できれば自然に。
「……ニコラスから、あなたの出身地を聞いたことがある。北の方だったか」
「はい。国境に近い寒冷地です」
ロゼッタの声が、ほんの少し和らぐ。話し始めると、すぐに情景が浮かぶような語り口だった。
「冬の朝は、屋敷の中でも音が違いました。外で使用人が水を汲もうとすると、桶の中の氷がぱきん、と乾いた音を立てて割れて、それで今日は相当冷えるなってわかるんです。庭に出ると霜柱が立っていて、踏むと、しゃり、と鳴りました」
「……音で、朝だとわかるわけか」
「ええ。まだ空が暗くても、音が硬い日は厳しい冷え込みです。少し湿った音だと、雪になる前触れだとわかりました」
その話を聞きながら、ルチアーノは頷いた。
「……今の私と、似ているな」
「そうですね。音や感触で季節を感じるところは」
ロゼッタは小さく笑った。
「北方は寒くて、冬は長いですけれど、その分、音がはっきりしています。氷の割れる音や、雪を踏む音……耳が覚えてしまうくらいです」
少しだけ間があって、続ける。
「……海は、遠いんです」
「海?」
「はい。北は山と平原ばかりで。王都よりさらに南ですから……実は、一度も見たことがないんです」
言いながら、少し照れたように息を弾ませる。
「波の音は、書物で読んだことがあります。ざあ、と寄せて、また引いていく、と」
遠くへ思いを馳せるような声が響く。
「音だけなら、想像はできますけれど。……いつか、本物の波の音を聞いてみたいです」
明るい声で言われ、胸の奥が少し温かくなる。
(……楽だ)
喋っているだけなのに、呼吸が楽にできる。
「……そういえば、昨年の式典で」
思い出すように口にする。
「王国歴五百年の記念式典で、北方の貴族が参列していた。マリーニ子爵夫妻も、その中にいたな」
「はい」
「……遠目だったが、覚えている」
記憶が、妙にはっきり形を取った。
「奥方は、凜として落ち着いた佇まいだった。隣の子爵は穏やかな表情で、後ろから奥方を見守るような立ち位置だったな」
「母と父です。よく覚えていらっしゃいましたね」
驚いたような息が、少しだけ弾む。
「髪は母譲りだと言われます。光が当たると、少し赤みのある茶色で……父はよく『夕方の色だ』と言っていました」
「……夕方の色」
「瞳は父譲りです。蜂蜜みたいな色だと、周りからは言われます」
そこで言葉が少し途切れた。
「……表情も、父に似ているそうです」
「……そうか」
短く答えながら、ルチアーノは一瞬間を置いた。
(……つまり)
記憶の中の夫妻の姿を並べ、勝手に組み立ててしまう。
(……いや、見たことはない)
肝心の本人を、今は目で確かめられない。
「……自分で、あなたを見てみたかったな」
ぽつりと零れた言葉に、すぐ自分で嫌になった。
「……いや、変な意味ではない」
「はい。わかっています」
あっさり返される。
(わかっている、のか)
それとも、わかっていないのか。どちらにしても厄介だった。
「いつか、見られるようになるといいですね」
慰めでも約束でもない。その言い方が妙に心地よい。
話題は自然に移った。
「……剣はもう、振れない」
言葉にしても昨夜ほど胸は痛まない。代わりに、少しだけ悔しさが残る。
「子どもの頃から、剣と魔法は切り離せなかった。剣を振り、魔力を通し、距離を測る……それが身体に染みついていた。今は、距離がわからない」
「でも、殿下は今も距離を測っています」
ロゼッタは穏やかに言った。励ましではなく、事実のように。
「音や気配、判断で」
ルチアーノは天井の方へ顔を向けた。
(……確かに)
同じではない。だが、失われたわけでもない。
「……昨日は助かった」
二度目の言葉は、少しだけ照れを含んでいた。
「そう言っていただけて、よかったです」
その返事が、妙に胸に残る。
(……孤独じゃない)
昨夜、すべてを見せてしまった相手だ。それでも、こうして雑談をしていられる。
いや――それ以上だ。
(……気になる)
その感情に、まだ名前はつけない。
ルチアーノは深く息を吸い、静かに吐いた。昨年、確かに見えていた光景。今は見えない世界。その断絶の中で、新しく得た温度が、すぐ傍にある。
それだけで、今日は十分だと思えた。




