25 弱った心を受け容れる専属侍女
ルチアーノにとって、夜は静かすぎた。
離宮の灯りは落とされ、聞こえるのは自分の呼吸と、遠くで風が壁を滑る気配だけだ。その静けさが、今夜はやけに残酷に感じられる。
熱があることは、もう否定しない。
身体は重く、喉は渇き、布団の中で何度体勢を変えても、落ち着く場所が見つからなかった。それでも、目を閉じていれば眠れるはずだと、何度も自分に言い聞かせている。
(……嫌だ。どうして、私ばかり)
浮かんだその考えを、反射的に押し戻そうとする。
こんな言葉を思い浮かべること自体が腹立たしく、胸の奥がざわついた。
見えていた頃は、一目見れば誰の顔も覚えられた。
声と姿が自然に結びつき、列の中にいても迷うことなどなかった。それが今は違う。
(……こんなに近くにいるのに)
すぐ傍にいるはずのロゼッタの顔がわからない。
声はわかる。歩き方も、息遣いも、距離の取り方もわかる。それなのに、輪郭が結ばれない。どんな表情で、今こちらを見ているのかが、わからない。
(歩けないわけじゃない。考えられないわけでもない。……それでも)
当たり前にできていたことが、確かめなければ進めなくなった。
できているはずなのに、できていない気がする。その感覚を、毎日、何度も突きつけられる。
「……もう、嫌だ」
声が勝手に零れた。胸の奥が熱くなり、息が乱れる。
(戻らない)
わかっている。
わかっているから、苦しい。
喉がひくりと鳴り、視界が滲む感覚が蘇る。見えないのに、涙だけが勝手に溢れ出した。
「……っ」
嗚咽が止まらない。肩が震え、呼吸が崩れる。
「……なぜ、私なんだ。もう、何もできなくなった気がする……」
そう言った瞬間、完全に自我が崩れた。
声が裏返り、涙が止まらなくなる。
「……一人に、するな……」
それは命令でも願いでもない。
縋りつくように、搾り出した本音だった。
「……ロゼッタ……」
名前を呼びながら、布団の上で手を伸ばす。
何かに触れなければ、壊れてしまいそうだった。
「……行かないでくれ……」
言葉が途切れ、息が詰まる。
「……手を……手を、握ってほしい……」
情けないとわかっている。
それでも、止められなかった。
◇ ◇ ◇
その声を聞いた瞬間、ロゼッタは立ち止まらなかった。
理屈を考える前に、身体が動いていた。
寝台の脇に近づき、まず殿下の手を包み込む。
強くは握らない。ただ、離れないと伝えるための触れ方で。
あのとき、手を離してしまったまま、終わった。
だから今度は、泣き疲れて眠るまで、離れない。
「……大丈夫です」
声を低く、落ち着かせる。
「ここにいます。どこにも行きません」
殿下の指が、はっきりとロゼッタの手を掴む。
痛いくらいの力に、今の状態がすべて表れていた。
ロゼッタはもう一方の手で、殿下の髪に触れた。
乱れた金髪を、ゆっくりと撫でる。一定の速さで、同じ動きを繰り返し、考えなくて済むように。
殿下の嗚咽が強まり、ロゼッタの胸に顔が押しつけられる。
子どものような、抑えのきかない泣き方だった。
(……ここまで、溜めていた)
王子として、決める役をずっと続けてきた。
弱音を吐く場所を、持てないまま。
「……怖いですよね」
否定しない。正そうともしない。
「できていたことが、急にできなくなるのは……つらいです」
殿下の肩が、大きく揺れた。
ロゼッタはその身体を包むように支え、撫でる手を止めない。
「……それでも、殿下はここにいます」
声をさらに落とし、呼吸に合わせる。
「考えていらっしゃいます。消えてしまったわけではありません」
殿下はロゼッタの胸に顔を埋めたまま、泣き続けた。
言葉にならない声が、何度も漏れる。
(……受け止めるしかない)
それが甘やかしだと、わかっている。
けれど、ここで線を引けば、この夜の絶望は行き場を失う。
「……今夜は、全部ここに置いていいです」
ロゼッタは、はっきりと告げた。
「私が、受け止めます」
一晩眠れば、熱は下がる。
それは、きっと本当だ。
だが、この夜に溢れ出した弱さは、ロゼッタの前でしか、出せないものになってしまった。
ロゼッタは、殿下が泣き疲れて眠りに落ちるまで、手を離さなかった。撫で続け、抱き留め、呼吸が完全に落ち着くまで傍にいた。
夜明けはまだ遠い。
それでも、ここには確かな温度と、逃げ場のない距離がある。
今夜、彼の心の防波堤になってしまった。
その事実を、ロゼッタは静かに受け容れた。
専属侍女は、水差しの位置を音が立たないように整え、夜が終わったあとも困らない距離に置いた。




