23 八つ当たりの理由
朝から、どうにも調子が悪かった。
離宮の中は静かなはずなのに、空気が重く、音の輪郭が曖昧に感じられる。遠くの鐘も、鳥の声も、どこか滲んで聞こえた。
(……また頭が重い)
ルチアーノは椅子に腰掛け、杖の位置を確かめる。柄の感触も、床までの距離も、きちんと把握している。それなのに、胸の奥に引っかかるものが残り、呼吸が浅いまま整わない。頭の内側に、薄く重い膜のようなものが張りついている感覚があった。
見えていた頃は、こんな日はなかった。
少なくとも、気にしたことはなかった。
(……いや)
そうではない。
見えていた頃は、気づかなかっただけだ。
杯に触れたとき、小さな音が立った。それだけで苛立ちが跳ねる。
「……鬱陶しい」
低く呟いた声が、室内に零れる。誰に向けた言葉でもない。
天気が崩れそうな日は、最近決まってこうなる。理由はわからない。わからないことが、余計に腹立たしい。身体が重く、息が詰まり、思考が遅れる。視界がない分、その不調から逃げる術がない。
(見えなくなってからだ)
そう思った瞬間、胸の奥がざらついた。
見えなくなったせいにするのは、卑怯だとわかっている。だが事実として、見えなくなってから、天気の悪い日は確実に調子が落ちる。
立ち上がろうとして順番を誤った。杖より先に身体が動き、足が止まる。
「……違う」
壁を探り、掌が石に当たる。冷たく確かな感触なのに、気持ちが落ち着かない。呼吸が乱れ、喉の奥が渇く。
(……どうして、思い通りにならない)
答えは出ない。
拳を握った。
次の瞬間、壁に叩きつけていた。
鈍い音が、はっきりと響く。指の関節に、遅れて痛みが走った。
(……何をしている)
自分でわかっている。壊したいわけではなく、誰かに当たりたいわけでもない。ただ、行き場のない苛立ちが、身体の動きに滲み出ただけだった。
二度目は、力が入らなかった。それでも、拳を打ちつけた音は出た。
「……っ」
息が乱れる。こんなに情けない思いをしたのは初めてだった。
(……昔は、こんなことはなかった)
昔という言葉が、無意識に浮かぶ。
見えていた頃は、天気が悪くても判断も動作も滞らなかった。それが当たり前だった。
(……戻らない)
その事実が、今日はやけに近い。
そのとき、扉の外に気配を感じた。足音が止まり、布が揺れる。
(……ロゼッタか)
声はない。入ってもこない。
(来るな……いや)
矛盾が胸を刺す。
慰められたら、耐えられない。励まされても、耐えられない。
(……だが、一人には、するな)
扉は開かない。
その沈黙が痛くて、同時に救いだった。
しばらくして、気配が少し遠ざかる。待っているのだと理解する。
(……無様な姿は見せられない)
深く息を吸い、二度、三度吐いた。
ようやく呼吸が整い始める。拳の痛みは残っているが、それでいいと思えた。椅子に戻り、杖の位置を確かめる。
(今日は……無理をしない)
そう決めたところで、扉の外に気配が戻った。
「殿下。ロゼッタです」
いつもの声と、いつもの距離は変わらない。
「……入れ」
◇ ◇ ◇
扉の前で足を止めた瞬間、ロゼッタは察した。
今日は、殿下の調子が良くない。
呼吸が浅く、間が乱れている。それから、壁に何かが当たる鈍い音。
(……拳)
胸の奥がきゅっと縮む。けれど、すぐに判断する。
(今は、踏み込まない)
天気が崩れる前になると、殿下はこうなることがある。理由を説明できるほどの知識はない。ただ、前世の記憶がぼんやりと重なった。
(……気象病、かもしれない)
天候の変化で、頭が痛くなったり、身体が重くなったりする人がいる。
そういう話を、前世で聞いたことがある。
けれど、それ以上のことはわからない。医師でもなければ、専門家でもない。ただの侍女だ。
しかも殿下は、見えていた頃、こういう不調を訴えなかったとニコラスは言っていた。
だからこそ、余計に苛立っているのだと感じる。
(わかったつもりで、触ってはいけない)
ロゼッタは、扉に手をかけなかった。代わりに、そこにいることを選ぶ。
聞いている。離れていない。それだけを気配で伝える。
中から荒い息が漏れ、やがて少しずつ整っていくのがわかる。拳を打ちつける音は、もうしない。
(……今なら)
ロゼッタは一度だけ深呼吸し、扉の前で姿勢を正した。
「殿下。ロゼッタです」
「……入れ」
室内に入ると、空気が重かった。殿下は椅子に腰掛けたまま、拳をまだ完全には解いていない。顔色も良くないし、呼吸は整いつつあるが浅い。
(……体調も、万全じゃない)
踏み込みすぎない位置で止まり、意識していつもの口調を心がける。
「お加減はいかがですか」
「……問題ない」
物憂げな返事は、問題がない人の様子ではない。
「本日の予定ですが、午前は室内でお過ごしください。歩行は午後に回します。昼食も胃に負担の少ないものにしますね」
判断を委ねる形で、淡々と並べる。
「……勝手にしろ」
ぶっきらぼうな物言いだが、拒否ではなかった。
「はい。そうします」
一歩下がり、距離を保つ。殿下の世界を、殿下の手に残すために。
(……熱が出る前触れかもしれない)
そう思っても、口には出さない。決めるのは、殿下だ。
視力を失った人間のすべてを、見えている人が理解することはできない。
だからこそ、踏み込まない。
それでも、一人にはしない。
ロゼッタはそう心に決め、その日の流れを静かに整え始めた。




