22 イリナ・ディ・ヴァレンティーノ――誤算
第二王子の報告は簡潔だった。
「北方は落ち着いています。大きな問題は確認されておりません」
それを聞いて、イリナ・ディ・ヴァレンティーノは小さく頷いたものの、胸の奥に残った引っかかりを無視できずにいた。
言葉の内容そのものより、そうなっている理由が見えないことが気にかかる。
「支援物資の配分は?」
「滞りなく。輸送も再開されています」
報告は揃っている。整いすぎていると言ってもいい。
寒害の年であり、第一王子が王宮を離れている状況で、ここまで静かに収束するはずがないと、イリナは計算していた。
(……落ち着くはずがない)
不満は表に出る。多少の混乱は、次の布石になる。
そうなるように、段階を踏んで整えてきた。
(リカルドには、前に立たせている)
すべてを任せたわけではない。
判断の核は自分の手元に置き、息子には「見える役割」だけを与えた。
それで流れは作れると、疑いなく思っていた。──少なくとも、昨日までは。
それなのに、報告書の数字は揃い、現場は荒れていない。
イリナは書類に視線を落とし、指先を静かに揃えた。
(理由が、見えない)
不安ではなかった。恐怖でもない。ただ、計算と現実が噛み合っていない。
(計算通りにいかない、というだけで腹立たしい)
思考は自然と、王宮の外へ向かう。
離宮。
視力を失い、表舞台から退いた第一王子。
だが、その可能性はすぐに切り捨てた。
(見えない者が、そこまで影響を及ぼすとは考えにくい)
では、何が計算を狂わせているのか。
(問題があるとすれば……人)
判断が遅れる者。余計な配慮をする者。計算の外で動き、流れを整えてしまう存在。
イリナは顔を上げ、静かに言った。
「原因を、探しなさい」
声は低く、だが苛立ちは隠しきれていなかった。
その命令が、いつの間にか整えるためではなく、取り除くための準備へ傾き始めていることに、彼女自身はまだ気づいていなかった。
◇ ◇ ◇
離宮の執務室には、紙の擦れる音だけが響く。
ニコラス・サルヴィは机上に並べた文書を一枚ずつ確認しながら、意識を数字と語尾に集中させていた。
北方からの報告。王宮経由の調査結果。
そして、離宮宛に直接届いた現場の補足。
どれも騒ぐほどの内容ではない。
むしろ、騒ぎにならないよう整えられている。
「……問題は、起きていませんね」
独り言に近い声だった。返事はないが、それで十分だった。
書類を重ね、別の一通を開く。
簡素な書式だが、余計な言葉が削がれている。
(マリア嬢の整理ですね)
感情が混じっておらず、推測も書かれていない。「何が起きていて、何が起きていないか」だけが、淡々と記されている。
そこへ、控えめなノックがあった。
「失礼いたします」
入ってきたのは、ロゼッタだった。
姿勢はいつも通り整っているが、視線の置き方に、わずかな緊張が見える。
「殿下のご様子は?」
「安定しています。歩行訓練も、判断の遅れはありません」
間を置かずに、ロゼッタは言い切った。
準備された答えではなく、観察に基づいた返答だとわかる。
「何か、気になる点は」
「……王宮の調査が、少し早い気がします」
控えめな言い方だったが、核心を外していない。
ニコラスは視線を上げずに頷いた。
「同感です。北方は落ち着いています」
「はい。現場からも、混乱の兆しは届いていません」
短いやり取りのあと、沈黙が落ちた。
沈黙は、不安ではなく、確認の時間だった。
(理由を探している)
ニコラスは、心の中でそう整理する。
対策ではなく、修正でもない。納得するための調査だ。
だから、危うい。
「ロゼッタ嬢」
「はい」
声の調子を変えずに続ける。
「しばらくは殿下の生活を最優先にしてください。外の動きは、こちらで見ます」
「承知いたしました」
迷いのない返事だった。それが、かえって目立つ。
「……離宮に、触れられそうですか」
「直接ではありません。ただ、理由を探している気配はあります」
ニコラスは書類を閉じ、ようやく顔を上げた。
「理由を探し始めた時点で、判断は揺れています」
「はい」
それ以上、説明は要らなかった。
ロゼッタが一礼して部屋を出る。
扉が閉まると、外から一定の間隔で杖の音が聞こえてきた。
殿下は、今日も自分の判断で歩いている。
迷いはあるが、立ち止まってはいない。
(成立していますね)
それが、何よりも明確な事実だった。
ニコラスは再び机に向き、王宮からの調査文書を手に取る。
内容は整っているが、軸が見えない。
(理解できない者は、やがて人を疑う)
その「人」が、どこへ向かうのか。今はまだ、名を出す必要はない。
静かな離宮と、理由を求め始めた王宮。その距離が、少しずつ縮まっている。
ニコラスは文書を脇へ置き、次に打つ手を考え始めていた。




