17 恋の見守り隊
ニコラス・サルヴィは、離宮の回廊をゆっくり歩いていた。窓から差し込む光が床に長い影を落とし、石壁に夕暮れの色を薄く映している。
少し先で足を止めていたのは、ステラ・バルトーネだった。シルバーアッシュの髪をしっかりまとめ、若草色の瞳を食堂の方へ向けている。姿勢のよい立ち姿は、仕事の合間に立ち止まっているだけだと、第三者にはそう見えるだろう。
「様子は?」
声をかけると、ステラは視線をニコラスに移して答えた。
「歩行訓練は、壁際からの誘導、方向転換、段差の確認まで問題なく終えています。声かけの間も合っていましたし、杖の使い方も安定していました」
そこまで言ってから、ほんの一拍置く。
「食事も、完食されています。位置の説明で戸惑う場面もなく、器を倒すこともありませんでした」
具体的な報告だった。だからこそ、続く言葉がはっきりと意味を持つ。
「ただ……殿下、ずっと確認していらっしゃいました」
ニコラスは、思わず目を細めた。
「確認、ですか」
「ええ。次の動作へ移る前に、少し間がありました。普段なら、息をするより先に動かれる場面で」
なるほど、と内心で頷く。
介助は成立している。それでも、確認の間が残っている。
ニコラスの口元に、わずかな苦笑が浮かぶ。笑ってしまうほど軽くはないが、深刻さに傾くほどでもない反応だった。
(……答えは、もう出ていますね)
だが、その感想を声に出すことはしない。
ニコラスは後見人であり、王族の側近だ。十六歳の少年の恋を、無邪気に応援できる立場ではない。
王族という立場。子爵令嬢という身分。
その間に横たわる現実を、彼は嫌というほど知っている。それでも。
(健全だ)
視力を失い、世界の組み立て直しを迫られた少年が、誰か一人の存在によって心を落ち着かせ、判断を保ったまま日常を送れている。そのこと自体を、不自然だと切り捨てる理由はどこにもなかった。
「代わりの介助で、崩れはありませんでしたね」
「はい。むしろ丁寧に一日を送っていました」
ステラがそう言って、少しだけ視線を動かす。
「でも……殿下、探していました」
「声の位置を?」
「それも。あと、間と……温度でしょうか」
その言葉に、ニコラスは小さく息をついた。
「ロゼッタ嬢の声は、輪郭がはっきりしていますからね」
「ええ。柔らかくて、よく通る声ですね」
ステラの表情が、ほんのわずかに和らぐ。
「それに、近くに立つと体温が伝わります。殿下より、ほんの少しだけ高い温度が」
その「ほんの少し」が、基準になる。
それは介助の技術ではなく、相性でもなく、生活の中で自然に積み重なったものだ。
食堂の方から、微かな音が届いた。陶器に触れる軽い音。続いて弾んだ声が耳に届く。
「殿下、どうですか?」
明るく聞き慣れたロゼッタの声だった。
「……美味い」
返事は短い。だが、ルチアーノの声の調子が明らかに変わった。
先ほどまで張りつめていた空気が、ゆっくりと解けていく。
ニコラスは、回廊の陰から食堂の様子を窺った。
淡い黄色のプリンが、新しい器に盛られている。縁が高く、スプーンが迷わない形だ。ルチアーノは背筋を伸ばしたまま、落ち着いた動作で口に運び、ロゼッタは半歩引いた位置で微笑んでいる。
触れない。口出ししない。だが、確かにそこにいる。
(距離が……完璧すぎます)
介助ではなく、保護でもない。それでも、殿下の世界が自然に回り始める距離だ。
ニコラスは、思わず綻んだ口元に手を当てた。
「……困りましたね」
「止める理由が、ありませんか?」
ステラの問いに、ニコラスは静かに頷いた。
「ええ。王族の側近としては頭が痛い。後見人としては、慎重にならざるを得ない」
一拍置いてから、続ける。
「ですが……人として、健やかであることは喜ばしいです」
十六歳の少年が、恋をして、思い悩んで、それでも判断を失っていない。
それを否定する理由を、彼は持たない。
「では、私たちは」
「ええ」
ニコラスは、わずかに笑った。
「恋の見守り隊ですね」
「順調ですか?」
「ええ。今のところは」
回廊の先へ歩き出しながら、肩越しに続ける。
「見ている側が、少し忙しくなる程度には」
背後で、スプーンが器に触れる穏やかな音がした。
それは、この離宮が今、きちんと機能している証だった。




