16 彼女がいないだけで、こんなに違う
目を開けた瞬間、ルチアーノは違和感を覚えた。音がないわけではないが、いつもそこにあったはずの気配が、ひとつ抜け落ちている。石鹸と、ほのかな柑橘が混じったあの香りではなく、石と布と朝の空気だけが残っていた。
「殿下、おはようございます。ステラ・バルトーネです」
落ち着いていてわかりやすい声だった。視力を使わない相手への配慮として、申し分ない発声だと頭では理解する。距離も適切で、近づきすぎない。体温が伝わるほどではないが、遠すぎることもない。
それでも、耳が勝手に別の音を探してしまう。名乗る前の小さな息、動く前に一拍置く間、明るく輪郭のくっきりしたあの声。
(……探しているな)
気づいて、思考を切る。比べる必要はない。代わりはいて成立する。それが制度だと、理解している。
杖の先で床を確かめ、立ち上がった。反発は一定で、段差もなく歩ける。
「正面、平らです。三歩ほど進めます」
声かけの間はちょうどいい。早すぎず、遅すぎない。完璧だと判断できるのに、踏み出すまでに一拍考えている自分に気づく。いつもなら、息を吸うより先に動いていた。
一歩、二歩。歩調は合っている。失敗もない。ただ、どうしても余計な力が抜けなかった。
香りだけではない。声の柔らかさが違う。近づいたときに伝わる体温が違う。ロゼッタは、いつも自分より少しだけ高かった。その差が無意識の基準になっていた。
(……困っていない)
困っていないからこそ、理由がはっきりしない。判断はできるが、判断するまでの負荷が増えている。
歩行を終え、壁際で杖を床に当てると、ようやく息が整った。
「ありがとう」
「いえ。問題ありませんでしたね」
その言葉に、否定はできなかった。問題はないが、楽ではない。
昼の食卓でも同じだった。皿の配置は正確で、説明も過不足がない。温度も適切だ。だが、口に運んだ瞬間、違いがわかる。硬いわけではないが、とろみが少ない。スプーンですくったとき、形が少し崩れやすい。
(……考えているな、私は)
いつもなら、考えなくてよかった。
「恐れながら……殿下」
ステラの声が入る。ためらいを含んだ間が、わずかに置かれる。
「今日のお食事、召し上がりにくくはありませんか?」
ステラは踏み込みすぎない距離にいる。だが自分が「いつもと違う」と感じていることを察しているという意思表示。
ルチアーノはスプーンを置き、静かに息をついた。
「……問題はない」
「はい。問題はございません。ただ……ロゼッタが用意する食事は、殿下に寄り添って作られているのだと」
そこまで言って、ステラは口を閉じた。十分だった。
自分の中で、何かが静かに確定する。代わりは成立する。だが、いないと自然ではない。
(……彼女がいないと、楽ではない)
その事実を、言葉にしないまま、初めて受け容れた。
◇ ◇ ◇
食堂を出たあと、ステラは小さく息をついた。
(これはもう、わかりやすいわね)
技術の問題ではなく、好みの問題でもない。殿下の世界の基準が、誰か一人に結びついているだけだった。溜息が出るほど健全で、少し微笑ましい。




